浜田明範「存在論的転回とエスノグラフィー~具体的なものの喚起力について~」

浜田明範
「存在論的転回とエスノグラフィー~具体的なものの喚起力について~」
立命館生存学研究

本稿は、人類学における参賀と観察、交流と記録をしていく「エスノグフィー」と呼ばれる研究手法について、主に「存在論的転換」と呼ばれる動向のなかでどのような意味を持ちうるのかを考察したものである。

 1.存在論的展開の広がり

人類学の存在論的転回の動向は2010年代といわれている。その火付け役となったのは、アミリア・ヘナレ、マル. ティン・ホルブラート、サリ・ワステルらによって、論文集『事物を通して考える』の序論である。人類学の「自然/文化」といった西洋的前提を、事物に着目して相対化しようととする試みである。こういった試みから人類学が内包する二つの矛盾した方向性を確認することができる。一つは、「いつでもどこでも妥当しるような新しい存在論を自らのてで定時していこうという普遍主義的な方向性、二つ目は自らの存在論ではなく彼ら(観察対象)の存在論を提示することによって私たちの前提を切り崩していこうという相対主義的な方向性である。」と浜田は考察する。そのうえで、自然という概念が西洋的な概念である「ひとつの自然と複数の文化」という前提を通して、存在論的転回論が相対化しうる異なる発想を可能にしている。

2.具体的なものを通して考える

ヘナレたちの「物を通して考える」論考の前例として減収されているのが、マリリン・ストラザーン『部分的つながり』である。本節ではこの本の説明を「(1)人工物や身体やパフォーマンスといった「具体的なもの」を通して、(2)そうやって提示されるイメージ間の関係を成長、反転、切断といった隠喩を用いて理解するメラネシアの人々のやり方について、(3)それらの方法を模範ないし彫琢しながら記述した」手法について説明している。
 まずは(1)について。文化人類学の「自然」概念につい小田昌教の、ある民族は具体的なもの(鳥や木々)を通して自然というものを把握する思考様式があることを引用し、具体的なものが持っている喚起力について述べる。
 (2)について、隠喩の力について述べる。直喩とは異なり隠喩的な表現には、前提の条件が必要となる。ただの具体的なものが、他の物と関係を用いずに明治的に表現したところで、相手には伝わらない。具体的なものには、他の具体的なものとの類似性や近接性によって多重化して認識される必要がある。しかし、この隠喩的表現を分析するにあたり、言語化することによって表象の暴力に推する危険性が伴う。このような危険性も含めて、部分的つながり(エスノグラフィー)は、人類学者がそれまで見ることできなかったものを見えるようにする一つの手段であるといえる。

3.二つのポスト多元

実際にストラザーンは「ポスト多元」という手法を用いて「部分的つながり」という発想を実現しようとしていることを述べている。ポスト多元的は多元主義(たとえばデスコラの議論のような分類)とは異なる。その例として、アネマリー・モル『多としての身体』を紹介している。モルハある病気の分離と重なり合いの可能性が成立することを多重性と呼ぶ、それは複数の物事がお互いに重なり合うことのない多元性とは異なる。この多重性こそがポスト多元的な状態であるとモルは指摘する。
浜田は上記の考察をふくめて、「通常ひとつだと思われているものを複数化し、更にそれをつなぎあわせることによって見出されるポスト多元的な状況を「自然のポスト多元」と呼ぶ。自然のポスト多元のイメージは、それ自体、一を志向する普遍的主義的な発想を乗り越えるものであり、同時にまた、多を志向する相対主義的な発想を乗り越えるものである。

4.おわりに

これまで、人類学において、エスノグラフィーという技法は、存在論的回転からどのような可能性があるのか。以下の要素から検討した。
(1)具体的なものに注目すること
(2)人類学理論を人々知的実践の翻訳とみなす
(3)一と多の関係を調停するメカニズムを探すこと
エスノグラフィーは言語化しにくい物事の要素を分析すること、西洋的な主観のみならずその出来事書き写すことで、その出来事の複雑性を維持し、複雑なイメージを喚起しうる、ポスト多元的な可能性を持っている。

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