樋田豊次郎「器物の構造」『「かたち」の領分:機能美とその転生』東京国立近代美術館(1998)

本稿の構成

1 実用と芸術表現の往還
2 装飾品への変貌
3 道具への還元
4 器物は昨日と美を併せもつという認識
5 変貌と還元の補完関係
6 要求の質的差異
7 コノテーションを帯びた要求
8 擬自然化される器物

(1)要約

本稿は器物が古代から現代に至る歴史の中で、どのように捉えられてきたかを考察する物である。器物は、それ自体が芸術作品や装飾品であり、更に実際に日常で使用される道具である。
まず著者は、器物が装飾品へ変貌した理由として社会的、文化的要求だったことを考察する。器は、身体の延長のとして有機体的な一面を持つ。器をそのような有機体とみなすならば、そこにあ自立的な形成原理(材料と技術の特性がある)ことも見出すことは可能だ。しかし、それらが現実の中に戻される時、器物の自立性は装飾という特徴を伴って流動化されていく。著者は、ボードリヤールの『物の体系』(1968)の理論を援用し、器物に対して装飾する文化的欲求の他にも、下位的なそして超越的な文化体系に基づく要求によって器物を構築してきた歴史であるという「構築する意志」が働いていると仮定する。
この「構築する意志」に対して、道具への還元するという動向もあわれる。例えば、バウハウスにおける器のシンプルなデザインなどの装飾を取り除くような動向だ。著者はそのような動向を「回帰への願望」と呼んでいる。この願望は、器物が美と機能を本来から兼ね備えて持っているものであり、器物が装飾品として捉えれるようになったことを事前に踏まえ、器物は人間の必然に触発されて「生成」されてきたと捉える思想である。著者は丸山圭三郎「文化のフェティシズム」(1984)を援用し、言葉のもつシンボルとして捉えてしまう能力によって触発される「美意識」も不可避的に入り込んでしまう。人は無意識のうちに器を美的なものとして捉えてしまっているため、装飾化されて硬直化した器を再生させるために、「回帰への願望」=うつわという道具それ自体がもつ原型美に囚われているのではないだろうかと考察している。

器物の認識を「構築する意志」と「回帰への願望]という二項対立する要素はお互いが緊張を孕みながらも連携して、器物に芸術表現としての役割を与えてきたと考えることができる。それはバウハウスの制作物によく見ることができる。例えば、機能本意のシンプルなフォルムには、装飾を排除した結果であると同時に、幾何学的な構成美の追求から生まれた結果だからだ。後者の試みからには「構築する意志」を見ることができる。

以上の器物の考察とボードリヤールの消費におけるシミュラクル(実体のない紛い物)理論を踏まえて上で、1980年代以降に見られる現代美術に見られる近年の器物がそのまま引き伸ばされて巨大化させられたような作品(シミュラクル)の考察を行なっている。それらは物質性や触覚性の復権といった感覚として「回帰への願望」として表現されていると考えることができる。この人工物としての器物を山や川といった自然の産物のように見出しているような器物に対する感覚を、「器物の擬自然化」として捉えることができる。

(2)学術的意義

本稿は、1998年に企画された展覧会「うつわの領分」の企画者である樋田豊次郎の器に関する考察である。
90年代以降の現代美術では、すでに知っている既製品の巨大化してみせるといった、巨大化させるこのような傾向が見られる現代美術作品が増加傾向にあった。その中においても特に、器物という極めてニッチな道具に焦点を当てて考察している。
例えば、器といっても、その物のの持つ文化的・政治的な一面を「構築する意志」と捉え、その原型に対する美への希求を「回帰への願望」の二項対立は、器物という一つの道具がいかに複雑な文化を持っていることを明らかにしている点でも興味深い。
同時に、器という身体的、有機的な一面に対して、トニークラッグなどは積極的にその形態を採用してきた。これらの形態の有機性についても、形態からの分析ではなく我々人間の知覚認識の観点から論じている点に、冷静な分析力を感じる。

このような、樋田の「構築する意志」と「回帰への願望」の二項対立は、例えば、日本の古代における縄文土器や弥生土器の繰り返しなどにも見られる。また、他の道具においても分析可能ではないだろうか。例えば、テーブル、建築、など。学術的意義、オリジナリティーの強い作品である


(3)関連文献
ボードリヤール『物の体系』(1968)
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(1970)
ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(1981)
物、消費→モノの自立性の危険性

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