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交換が見えなくなっている現代〜消費者には値段くらいしか見るものがない〜

私たちは日々交換の中で生きている。今日食べたハンバーグも、誰かが育てた牛をいろいろな人がお金と交換して加工し、私たちも消費者としてお金を払って食べている。今日起きて、つけた電気もお金を払って、誰かが作ってくれたもの。ものだけでなく、私たちは情報も交換しあっている。「今日は午後から雨でしょう」そんな情報を受信料、または広告会社という仲介を通してお金を払ったり、または、私たちの個人情報を払ったりして受け取っている。何もかもが交換で成り立っているこの世界。しかし、ふと考えてみた。人類が交換を始めたのはなぜか?

交換の起源を考える前にまず前置きとして頭に入れておかなければならないのが「所有」という概念である。私たちは何かを持っていることを前提に交換をし、持ち合わせがない場合や持ち合わせているものが対価として見合わないとされた場合には交換は成り立たない。では、ここで1つの疑問が生まれる。

ものを所有するという概念はどこから生まれたか?

はるか昔に思いを馳せてみる。もともと人類は定住よりも移動を好む動物であった。定住する技術がなかったのではない。移動する方が生きる上で効率的だったのだ。なぜかというと、定住をしていると資源が尽きる可能性があるし、廃棄物による汚染で土地が復活するまでには時間を要するためだ。
例えば、ある土地で狩猟をして生きる人間がいたとして、毎日そこで狩猟を続けていたら、その他の種もそこには人間がいる、食われてしまうと学習し、その地域には寄り付かなくなるだろう。また、採集をしていたとしても植物だっていつでも実をつけることができるわけではない。その場合、定期的に移動をして過ごした方が、効率的に狩猟最終を続けることができる。
また、廃棄物による汚染も人類が移動を好む要因の一つであったと言える。考えてみて欲しい。昔はトイレなどないのだ。尿意があればいつでもする。便意があればいつでもする。それが当たり前であった。トイレがあるのは人類史において最近のことである。そこらへんに散らばった糞尿からおさらばするには、場所を帰ることが1番だ。時間がたてば、それらは土に帰るし、さっさと違う土地に移動して放っておけばよかったのだ。

こう考えると、私たちの祖先に所有という概念はほとんど存在しないように思える。ずっと移動をしているため、永続的に何かを持つなどという考えは到底生まれないだろう。移動するには何かを所有していることは邪魔なのだ。しかも、狩猟や採集は1人でするものではないのだから、道具などは共有して使っていたに違いない。自分1人が持っているものというのは現代人に比べてはるかに少なかったはずだ。

つまり、現代において、ものの所有の根源となっているのは定住ということになる。

さて、定住はいつから生まれたか?それは10000年前、地球が温暖化して、森林が成長し、鬱蒼としげる森の中での狩猟は困難になり、しかも、動物たちは温暖になる地球の気候に合わせてサイズを小さくした。困難になる狩猟、獲物を捕まえることができても個体の大きさがそれまでよりも小さくなってしまったので、食料も足りなくなった。どうする人類!?

そこで始まったのが定住だとされている。困難になる狩猟生活の中で人類が必要としたのは「貯蔵」で会った。獲物を取れるだけとっておいて、どこかに貯蔵しておいて、日々の生活に困らないようにする。前述したように、貯蔵をすれば移動は困難になり、その地域の動植物を取り尽くしてしまう可能性もある。そこで、やむなく手に入れた技術が、畜産と農業技術だ。家畜を飼い、植物を育て、自然任せでなく、自分たちで食べるものを作り出すようになった。定住には気候によって生活が左右されるなど危険が伴う。しかし、地球全体の変化にやむをえず、人類は移動をやめ、定住することを選んだ。

この「貯蔵」という概念。言い換えれば「余剰」である。今の私たちにはいらないが、明日の私たちに必要かもしれない。そんな未来への思考回路に人類が辿り着いたということ自体奇跡的のようにも思えるが、今を生きるだけでなく、未来も私たちが生きるという意識が定住生活の根幹にある。しかし、その余剰も永続的なものではない。資源は朽ち果て、いつか土に帰る定めにある。つまり、貯蔵、余剰には限りがあるのだ。

*ここからは私の持論、というか今考えていることでしかないので、さらりと読み流していただけるとありがたい。思考を整理しているだけです。

余剰が生まれたら、どうするか?捨てるか足りていない誰かに分け与えるかだ。ここで「譲渡」が発生する。捨てるとなると、廃棄が増えるので、土地を汚すことになる。(長い目で見れば、豊な土を育むことにつながるが、人間の糞尿に加え更なる廃棄物が増える意味はないと思われる)そうなでば、譲渡の方が良いのではないか?と人は誰かに譲ることを始めるのではないか。そうすると、「他人のものが自分のものになりえる」という経験を人類はすることになるのだ。自分が生産するより、他人からもらった方が楽だ。そこで、他人から奪うものが出てくるのではないか。

そして、その奪い合いは、人間の生活を不安定なものにするに違いない。私は、その不安定な生活に対する不安感から逃れるために出来上がったものが「交換」ではないかと考えている。

平和的に余剰を分配するための手段としてまず、持っているものが持たないものに譲渡する。すると、そこに上下関係が生まれる。もつものは持たないものの生活を支配するのだ。(持つものが提供をやめれば、持たないものの生活は困窮に陥る。)つまり、この場合、人々はものと身体の自由を交換していると言える。

また、身体の自由を交換するのはあまりにもリスクがあるため、物を譲渡されるときに、相手が欲しいと言っているものがあればそれを交換することもできる。これが物々交換だ。対価が等しいもので、なおかつ相手が欲しがっているものであれあその取引は成立する。

この交換という儀式、奪い合いを回避し、平等を求めた結果と言えるのではないかと私は考えている。

しかし、現代において、この交換は目に見えなくなっている。私たちはどこから何がきたのかほとんど知らない。誰が作っているのか、作る過程で何が使われているのか、支払っているお金が生産者にとって、そして消費者として対価として正しいのかもほとんどわからないのだ。私たちは、もう一度、立ち返ってこの「交換する」という概念を考えるべきではないだろうか?私たちがものを買ったり、うあれれている商品の値段を見るときに、私たちは何と貨幣を交換しようとしているのか、見る姿勢をもっと身につけたほうがいい。見えないサプライチェーンから生まれている格差や社会課題に一人一人が気づくことが、社会課題を自分ごととして捉える第一歩なのではないだろうか?

(もしかして、この労働や商品の有効性を値段という記号で表し、私たちはそれしか消費しなくなってしまったことをボードリヤールが言っているのかな?「消費の記号化?」いや、違うかも。思考はまだまだ続く)

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