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女生徒ちゃんに出会うために。九段理江『Schoolgirl』

九段理江『Schoolgirl』を読み、あらためて太宰治『女生徒』と言う作品について考えさせられた。

たとえばほんとうにこれが “令和版『女生徒』” なのであれば、ここにいるのは有明寂嬢ーー『女生徒』の元になった日記を太宰に送った実在の女の子ーーとは全く関係のないあたらしい女の子のはず。有明寂ちゃんは百年前の女生徒。そして彼女は百年後の女生徒。令和の彼女はタブレットを操作し有明寂をアップデートする。そして令和版『女生徒』ができあがる。
しかしながら彼女はそれをしない、否、ついぞすることができない。時代を超えてもなお14歳の女の子を苦しませるなにかから逃れられない。逃れられないからこそ、有明寂は寄り添える。有明寂とかつてお友達だった、「お母さん」も、きっと。

わたしが太宰治『女生徒』に出会ったのはまさにわたしが女生徒だったころで、「どうしてわたしの思うことがここに書いてあるの?」と衝撃を受けたことを今でも忘れることができません。あなたがそうおもったように、わたしも女生徒ちゃんにわたしをみました。
それからこれまで、『女生徒』がうつしこまれた作品を集めてきました。

青森県立美術館の「美少女の美術史展」で発表された『アニメーション 女生徒』は、レトロな風合いがかわいらしく、また太宰および有明寂ちゃんの生まれた青森県の展覧会で作品が制作されることに大きな意義がありました。女生徒ちゃんは自分を「美少女」なんて言われたらきっと悲しむのだろうけど。

『スクールガール・コンプレックス』は「『女生徒』を読む女の子」に価値を見出す男性の存在がひたすら気持ち悪かった記憶があります。しかしながらきっとあり得る視点。女生徒ちゃんの存在は罪なのかもしれない。さよポニちゃんは素晴らしかったです。しかし女生徒ちゃんはおさげです。

三鷹・点滴堂で開催された「女生徒展」は、女生徒ちゃんがある種のアイコンになり得ることを教えてくれた。点滴堂作家様たちが女生徒ちゃんモチーフに制作した作品はどれもかわいくって楽しかった1日だったのですが、トートバッグを紛失したことは永遠に悲しいです。女生徒ちゃんはただの女生徒ではない。埋没せずにわたしたちの前に現れる。女生徒たちの代表として。

山下リオが主演したNHKドラマ「太宰治短編集」内の『女生徒』は、山下リオ嬢があまりにも鮮烈で、以降わたしたちは有明寂を山下リオで思ってしまう。まんまるの大きなおめめは大きいだけで厭、何の役にも立たない。そんな目を映像に残してくれたこと。女生徒の輪郭を得るにはとてもわかりやすいです。

立東舎「乙女の本棚」シリーズの『女生徒』が今井キラ先生を選んでくれたことは僥倖だし、いま手に入りやすい角川文庫のくまおり純さんの表紙もセンチメンタルさのなかに軽やかさがあり好きです。いつぞやのどいかや写真は完全に違う女生徒、人違いのレベルだったので変わってよかったです。

そして『Schoolgirl』に連なる。
女生徒という作品はもう主人公とわたしたちに染み込んだ思い出のようなもので、きっとわたしたちはいつまでもそのひとかけらを切なく噛み締める。
これからもアップデートされて再生産されていく女生徒ちゃんに、きっとわたしたちは出会える。次世代のわたしたちも。

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