【感傷考察】生き続けるディズニーランド、対するノスタルジーの奴隷

こんにちは!幼少期の思い出に囚われてますかー!?(気さくな挨拶)

近年になって、音楽でもファッションでも"ノスタルジー"がキーワードになっていると感じます。シティポップ、平成ギャル、Y2K……
みんな、体験したことのない虚偽のノスタルジーに夢中なんです。だって平成にギャルだったことないでしょう!?あなたたち、2000年代生まれでしょう!?

注意⚠️このブログはDオタではない一般ディズニーランドに激重感情を抱く人が書いています❗️Dオタのみんなは己の知識で補いつつ読んでね❗️

存在しない思い出、知らない誰かの記憶

このような概念をよく考察するには「Vaporwave」というムーブメントと「感傷マゾ」という用語が結構わかりやすいと思うんですが、それは後々書こうと思っているので(気になった方はぜひ調べてみてください、すごく面白いです)、私なりにノスタルジーの持つ悲しさをディズニーランドと絡めて話そうと思います。

まず、私には奇怪な趣味があります。

それは「Youtubeにある15年くらい前のディズニークリスマスの知らない人のホームビデオを見ながらRadioheadのNo Surprisesを聴いて号泣する」ことです。

狂ってる。

でもなんとなく気持ちが分かるひとは少なくないと思います。
知らない人の夢の中を覗いたような切なさ。

もはや味のしなくなった自分の思い出よりも他者の脳内を覗くような行動でしか感傷を得られなくなっているんです。

2014年のディズニークリスマスは私の人生の中で1番煌めくような思い出でした。永遠に繰り返したいくらい素晴らしい景色、子供の時に過ごすクリスマスのワクワク、泊まったディズニーのホテルで初めてリアルタイムで見た2355も全て覚えています。

でも思い出は思い返すたび味がしなくなっていく。ノスタルジーが一般化した世界では思い出そのものが陳腐になっていきます。Y2K?硬めのプリン?全部サブカルチャーの従順な飼い犬になってしまいました。

耽美主義に陥るな!思い出を枯らせ!

じゃあ、ノスタルジーが陳腐化せずに美しいまま残っていくのが健全なのでしょうか?
私は全くそう思いません。

私たちが子供の時に撮った低画質すぎるホームビデオはいずれ見るデバイスさえ無くなって誰も見なくなるでしょう。私たちが昔抱いていた感覚や感情や、そのときどきの感動は忘れ去られて、思い出はどんどん記憶から薄れていくでしょう。

美しいまま残るものには生命がありません。生命があるから、私たちが生きているから過去はどんどん虚ろになっていきます。生命を持たないまま丁寧に保存されたノスタルジーはむしろ醜いです。生きた分だけ、思い出は役目を終えていくのに。

って頭の中では分かっているんです。

いずれ思い出になるもののために

虚像になった頭の中のディズニーランドと、今なお輝き続けて子供達に夢を与えてゆくディズニーランド。私の頭の中で何度も再生されているディズニーランドはもはや虚像になった過去の、ある時点での、ディズニーランドの姿でしかありません。実物は夢を更新し続けていて、私だけが何度も何度も味のしないガムを噛み続けるように過去の私が感動した夢をループさせ続けていて…

現在への興味が無くなってきてしまったんです。

「今日もいずれ過去になり感傷的な思い出になるから」という理由で過ごす、ノスタルジーの奴隷なんです。わたしは……。

おわり。


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