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四月の風と留めておきたいこと

人生、迷走している。
自分が何をやりたいのかわからないし、今まで着ていたワンピースが似合わなくなって、何を着たらいいかわからない。

以前のnoteにも、わたしは興味のあることが次から次へと移っていくと書いたけれど、「わたしはこの分野を究める!」というような分野はないんじゃないかと思う。
ひとつの分野に立ち止まることはないような気がしている。

というのも、「わたしは古事記の研究をしたい!」とか、「言語学の研究者になりたい!」ではなさそうだからだ。

じゃあ日々何を求めているのかといえば、なにか本質を知りたいと思っている。本質というのがなにを指すのかもわからないけれど、「これってなに?」「これってどういうこと?」みたいなのに延々と耽っていくのが好きで、でもそうしているうちに、問いかける言葉に違和感をもって、言葉から自由になりたいと思ってしまう。

言葉って、使うと何らの歪みがあるような気がするから。
言葉を介せず、直接に求めている本質に触れたいと願っている。
言葉を習得しなければ、わたしが求める本質ってなにってことも思いつかないんだろうけれど。

言葉という梯子を使って、ここまで来た。
今、その梯子のてっぺんにいるけれど、本質にしかと抱きついたまま、登ってきた梯子をえいやっと蹴飛ばしたい気持ち。

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数年前は時間の外側に行きたいと思っていた。仏教学の先生に話したら、今と未来と過去が重なったところ、いっしょくたになったところはある、みたいなことを話してくださったことがある。
たぶん、生きることと時間って不可分だから、生きながら時間の外側に行くことばできないってことなんだろうなぁ。

言葉から自由になるっていうのも実現不可能らしい。千葉雅也さん曰く、だからこそ、言葉の外側に行くことはできないって認めた上で、言葉を使っていくことが大事なんだとか(たぶん)。

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太宰治の『お伽草紙』っていう小説は、昔話をアレンジしたものなんやけど、その中の「浦島さん」は、他人の批評が嫌な浦島が、れいの亀によって竜宮へ行く。竜宮は批評(ことば)のない世界で、浦島にとってはユートピアのはずなのに、やがて飽きて、陸上世界に戻っていく。

これって人間は、言葉で他者と持続的な関係を築いていかなければ、生きていけないってことなのかなって思う。

乙姫は、最低限のおもてなしをしたのち、客のことを忘れてしまうし、魚は踊りたいように踊り、乙姫は弾きたいように琴を弾く。誰からの批評がないことは安心できるけれど、誰とも関係を築くことができないのは、淋しいを通り越して、自分の存在が確かなものと感じられないんじゃないかな。

おまけに竜宮は夜なのか昼なのかもわからない、いつも5月のように爽やからしいから、時間も曖昧で、時間と自分の関係もよくわからない。そして、究極、言葉が全くなくて、自問自答することもなければ、「わたし」っていう存在は、どこかに埋没してしまいそう。

なんてことを、あれこれ考えるのが楽しいんだよなぁ。さらにいえば、木村敏さんの本の中身をもっと理解できたらと願う。そしたら、今ここに書いたことを、もっと深く、違ったところから掴むことができそうだから。

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結局、言葉があるから、わたしの存在があるんだろうし、言葉があるから、こうしてあれこれ考えに耽ることができるっていう結論に辿り着く。ここから出たいと思って家出するんだけと、やっぱり戻ってきてしまう感じ。こうやってぐるぐるしているから、ふと迷走している気持ちになるんだけど、少なくとも今は、なにかを深く突き詰めていくより、あっちにふらふら、こっちにふらふら、読みたい本を読みたいだけ読みたいのかな。この世を去るまでに、読みたい本がたくさんあるから。それが、今のわたしの偽りない気持ち。

書き留めておかないと、風と共にどこかにいってしまいそうだから、長々と記してみた。

次は、あれだけ文字がわからなかったのに、どうして本が読めるようになったのかを考察してみたいと思っている。

*今回のnoteの源泉*
千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために(増補版)』(文春文庫、2020年)
根拠を疑って、真理を目指すのがアイロニーである。アイロニーは過剰になると、絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になる。それは実現不可能な欲望である。(207頁)
アイロニカルな意識、つまり「外に出よう」という意識をもちながら、究極の外=現実それ自体は目指さずに、言語は環境から離れては存在しないということ、「言語の環境依存性」を認める。(87頁)



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