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わたしは生きてゆくよ。やることがあるから。 特に目的を決めずに、惹かれるままに進んでい…

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わたしは生きてゆくよ。やることがあるから。 特に目的を決めずに、惹かれるままに進んでいったらどこに辿り着くのか、観察中。 くまのがっこうのジャッキーがすき。 つよく、美しくなる。

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  • 「すぐれた芸術は医療である」と『いのちを呼びさますもの』のなかで、稲葉俊郎先生は述べられています。 わたしは、幼い頃から、習字を習っていたこともあり、勉強や研究に行き詰まったら書道に打ち込み、また書道に飽きたら研究の世界に戻っていました。 ただ墨をひらすらするときもあれば、なにかに取り憑かれたかのように無我夢中で書き続けたり、書き終わった後にはらはら泣いたりするときもありました。書道という芸術は、わたしの中のバランスを自然と調整してくれていたのかもしれません。 書道という世界の中で、私は学習者のひとりにすぎません。 それでも、作品にしてく中で、わたしなりに表現者として表現してきたものもあります。それが、年初めの、今年一年どんな一年にしたいかを漢字一文字で表す”今年の一字”です。 芸術から見た医療を感じるために、またわたしの表現の場として、過去の今年の一字をあげていこうと思います。

最近の記事

四月の風と留めておきたいこと

人生、迷走している。 自分が何をやりたいのかわからないし、今まで着ていたワンピースが似合わなくなって、何を着たらいいかわからない。 以前のnoteにも、わたしは興味のあることが次から次へと移っていくと書いたけれど、「わたしはこの分野を究める!」というような分野はないんじゃないかと思う。 ひとつの分野に立ち止まることはないような気がしている。 というのも、「わたしは古事記の研究をしたい!」とか、「言語学の研究者になりたい!」ではなさそうだからだ。 じゃあ日々何を求めている

    • 世界観と巣立ち

      考えることができるようになった。 適切な参考文献を選んできて、読んで、自分の主張したいことに必要な引用をして、ひとつのレポートにする。 これがすんなりできるようなった。 数年前は文字が読めないというか、わからない感じで、文字が読めるようになっても、水と油みたいに、読んだ内容が自分の中に入ってこなかった。 そして、考えて文章を構成するっていう行為をしたいのに、閉ざされている感じがしていた。まるで、テレビゲームの主人公が行き止まりのところで、ひたすら歩いているポーズをしている

      • あとがき

        命日でもないのに、お墓参りに行ってきた。 行かなきゃという義務感からでもなく、弔うためでもなく、ただただ行きたくて行ってきた。 彼に相談したくて、行ってきた。 どうやら彼は、ひとりの亡くなった人間から、先祖へ仲間入りしたようだ。

        • ふわりひらり蝶々

          わたしは、わたしのことを理解してあげることができているのかなって、ふと思う。 わたしは、わたしの興味を捕まえることができるのかなと、ときどき思う。 蝶々を追いかけて、ぱっと捕まえたと思っても、ふわ〜とすり抜けていくように、 わたしが知りたいのはこれだ!と特定しても、次の瞬間には、こっちもいいなぁと目移りしちゃう。 だからこそ、前回みたいに、決意を文字におこしていくのだけど、わたしの興味は、常にわたしより前にいる。 いつか捕まえて、じっくり観察することができるかな、

        四月の風と留めておきたいこと

        マガジン

        • 6本
        • 6本

        記事

          appendix

          ここ数年間、10時間睡眠が続いていた。 目覚ましをかけないかぎり、わたしの時間割に午前中はほぼなかった。 それが、最近目覚ましなしで、7ー8時間で起きるようになった。 心機一転、わたしの中で大きな変化があったんだと思う。喪失の変化を綴ってきたこのnoteに補足として記録しておこうと思う。記録しないと忘れてしまうだろうから。 ("忘れもしない4月のなんとかの夜"って書いておいて、一体いつの4月なんだって思うくらい、記憶は移ろいゆくものだから。) さて、わたしは、きっと入口を

          appendix

          自分の身体から、「こんな声が出るんだ!こんな大きな音が出るんだ!」っていう感動は、「わたしは、いま、ここに、存在する!その存在は許されてるんだ!」って奥深くから感じることに等しい。

          自分の身体から、「こんな声が出るんだ!こんな大きな音が出るんだ!」っていう感動は、「わたしは、いま、ここに、存在する!その存在は許されてるんだ!」って奥深くから感じることに等しい。

          歴史や古代中世の芸能をみてると、遠い昔にも人々が生きていたんだなって嬉しくなる。その末端に今のわたしが生きてるってことに胸が熱くなる。 これだけだと社会に成果を出すことにはならないんだけど、これが今回の生でわたしが体験したかったことなんだなぁって

          歴史や古代中世の芸能をみてると、遠い昔にも人々が生きていたんだなって嬉しくなる。その末端に今のわたしが生きてるってことに胸が熱くなる。 これだけだと社会に成果を出すことにはならないんだけど、これが今回の生でわたしが体験したかったことなんだなぁって

          「お願い!」と神に強く願う行為は、わたしの奥深くと繋がろうとする行為と等しいのかもしれない。

          「お願い!」と神に強く願う行為は、わたしの奥深くと繋がろうとする行為と等しいのかもしれない。

          『亡霊の心理学』

          ある人との別れがあった。 その人はいま遠いところにいるという。 その人との出逢いは、3年前だった。 夫の四十九日頃にはじめて知った。 なんとなく、夫が姿を変えて私の前に現れてくれた、そんな感じのする人だった。 出逢って3年が経とうとした頃、急にその人との別れが近づいているんじゃないかと、ものすごく泣いた時期があった。 泣きながらうすうす意識していることをはっきり自覚した。 わたしは、いま現実にいるその人に、夫と過ごせなかった未来を重ねていたと。 夫は死んでしまった。 で

          『亡霊の心理学』

          能は、過去が固定した過去ではなく、現在から見た過去であって、瞬間瞬間に変わっていくものだって思わせてくれるから、すき。

          能は、過去が固定した過去ではなく、現在から見た過去であって、瞬間瞬間に変わっていくものだって思わせてくれるから、すき。

          甘さの魔法

          わたしにとって、好きには終わりがある。 好きという強さは深く哀しむことを可能にしてくれる。 哀しみや苦々しい思いだけではあまりに孤独だから、喜びや甘い思いを携えておく。 そういう風にひとは、酸いも甘いも経験して、感じて、深い器が出来上がっていくんじゃないかな

          甘さの魔法

          その先にあるもの

          ことばを修得する以前に起こった出来事と似たようなことが、ことばを修得してから再び起こることによって、以前の出来事で作り上げた「クセ」をほぐすことができるんじゃないかと、最近思っている。 わたしは、組織の中にいると、いわゆる指示待ち人間で、自分には確固たる「わたし」というものがないと思っていた。 でも、本当はその真逆で、「わたし」は何がしたいのか、どこに行きたいのかをしっかり捉えているし、その「わたし」とは何かにすごく興味がある。 つまり、わたしの頭の中は「わたし」でいっ

          その先にあるもの

          すきなことば

          「映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを−例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを−語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。」 新海誠『小説 天気の子』あとがきより

          すきなことば

          異界との出会いと眠り

          (統合失調症について)以前には修学旅行や海外旅行で発症する人が多くいたので、笠原嘉はこれを「出立の病」と名づけた。p.53 河合俊雄さんの『心理療法家がみた日本のこころ』を読みながら、眠気を感じていたところに、好奇心があらわれてくる。そして、ちょっと目が覚めてきたところで、あることを思い出した。 ”そういえば、わたし、林間学校に行ってからしばらく、自分の名前を呼ばれても気づかなかった、(らしい。)“ 当時、そんな大ごとになることもなく、母はこの時のわたしを「気抜け症候群

          異界との出会いと眠り

          イニシエーション

          前回の投稿が記念すべき100個目だったらしい。 自分の思いや過去を振り返る記事から始まったnoteは、予期せず遺族日記となり、死別からどう回復していくかを綴っていくのがメインになっていった。 ここからは、自分がどうしてその回復の道を辿れたのかを記していていきたいと思う。 ** ずっと前の話になるけれど、わたしは成人式に出なかった。形だけの通過儀礼より、わたしにとってのイニシエーションを選んだ。それが、今回の死別だと思っている。 今まで誰かの人生を歩んでいる気がしてい

          イニシエーション

          ざらりとさわり

          一時期、わたしの顔には皮膚がなくて、生の肉をそのまま外界にさらしている感じがしていた。 皮膚がないもんだから、むき出しの肉に風が当たると、それそれは身に沁みる。 同様に、当時は、他人の感情やその人自身まで、わたしのなかに染み入ってくるようだった。 このときのわたしにとって、失われた皮膚とは、(心理的)他者との境界・世界との境界だったのだ。 むき出しの生肉に風が当たるというのはもちろん比喩なのだけど、それを音で表そうとすると「ざらり」という感じだった。 本当は「ざらり

          ざらりとさわり