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世界観と巣立ち

考えることができるようになった。
適切な参考文献を選んできて、読んで、自分の主張したいことに必要な引用をして、ひとつのレポートにする。
これがすんなりできるようなった。

数年前は文字が読めないというか、わからない感じで、文字が読めるようになっても、水と油みたいに、読んだ内容が自分の中に入ってこなかった。

そして、考えて文章を構成するっていう行為をしたいのに、閉ざされている感じがしていた。まるで、テレビゲームの主人公が行き止まりのところで、ひたすら歩いているポーズをしているのに進めない感じ。
考えるっていう選択肢の道が断絶してしまっている感じ。

だから、無理なく言葉を操れるようになったこと、どこまでも思考することができるようになったことは一種の感動だった。

でも、思考ができるようになって、少し前までの不思議な世界観にはもう行けないんじゃないかとも感じている。

今と平安時代が重なったような世界
現実とイメージの境界が薄い世界
現実と物語の世界がリンクする世界

そういう世界観のなかにいることはもうできないんじゃないか。
トトロに会えるのは子どものときにだけっていうように、どこまでも思考できる選択肢を手に入れたわたしは、もうあのあわい世界を体験することはできないんじゃないか。
あるいは、あわい世界に気づけないんじゃないか、そうみることはできないんじゃないかって思ってしまう。(解釈ならできるんだろうけど、それは世界に没入していない)

子どもの世界から大人の世界に移るってこういうことなのかなぁ。

もうnoteの記事は更新しないつもりだったけれど、スーパーで、商品をいち、にー、さん、しーってひたすら数える小さな女の子に感化されて書いてみた。この女の子、数を数えることができるようになったんだあって、すごく感動したから。ことばの世界に生き始める彼女がすごく愛おしく思ったから。 

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もっとも、小説家は言葉を操りつつ、現実のような虚構のような第三の世界を紡いでいくから、思考できるようになることと、不思議な世界を体験することはすぐさまトレードオフってわけでないだろうけどね。

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