見出し画像

appendix

ここ数年間、10時間睡眠が続いていた。
目覚ましをかけないかぎり、わたしの時間割に午前中はほぼなかった。
それが、最近目覚ましなしで、7ー8時間で起きるようになった。

心機一転、わたしの中で大きな変化があったんだと思う。喪失の変化を綴ってきたこのnoteに補足として記録しておこうと思う。記録しないと忘れてしまうだろうから。
("忘れもしない4月のなんとかの夜"って書いておいて、一体いつの4月なんだって思うくらい、記憶は移ろいゆくものだから。)

さて、わたしは、きっと入口をみつけたんだ。
今までは、ここだと思っても、扉がなくて、塀によじ登ろうと、あるいは壁を叩くようなことをしていたから、不自然だし上手く参加したい世界に行くことができなかった。
音楽性に興味がある、でも音楽学は西洋音楽が根底にあるような気がして、母国語以外で学びたいことを学んでいる気がしていた。
ほかにも、文化人類学とか、身体とか、理系っぽいこととか、あっちへうろうろ、こっちへうろうろして、定まらないし、定めようとしていなかったけど、ついに、自然と入れる入口を見つけたって感じ。(その名は、国文学!)

彼が亡くなって2年ちょっと毎日のように哭き続け緊張していたのが、そのあと3年弱のびにのびきって、やっと自分を律するようになった感覚。その感覚が養われるのを待ってたかのように現れた、わたしの入口。

3年前の夏に、あの世からこの世に帰ってきた感じがあったけれど、あれは、境界があやふやで、まるで皮膚がないみたいに感じていた「身体」の輪郭が定まったことを意味していて、そこから今まではあやふやな「心」を抱えていたかのよう。

今、6年程続けていたお稽古をお休みしているのだけど、それは、思春期の反抗みたいに、心が定まっていない時期に、反抗することによって、他者との距離を遠ざけて、心が成長と安定して個と個で向き合えるまでの過渡期なのかもしれない。
だとすれば、心の輪郭が定まるのも、もうすぐである気がしている。身体の輪郭が決定してからの、心の統一感まであともう少し。まるで人の発達過程を再体験しているようでもある。
そして、彼が亡くなっとき、これは3ー5年かかるなと思ったけど、その通りにことは運んでいる。

心の変化をぐぐぐっと後押ししてくれたのは季節もあると思う。
日が長くなって、気温が上がって、来ている服が軽くなると、春の陽気に誘われるように、ぱっと一歩を踏み出せるから。
気候に変化があるって本当にありがたい。

5年前の春も新入生だった。
だけど、一歩踏み出せば崖から転落してしまうんじゃないか、見えない底にどこまでもどこまでも吸い込まれてしまうんじゃないかと、まだなにも起こっていないのに怖くてしょうがなかった。

この春もまたぴかぴかの新入生である。モラトリアムに変わりはないかもしれないけれど、今のわたしには探求したいテーマがあるし、そのテーマは、わたしの「根っこ」になってくれると思う。
上代から続くウタという永遠の流れに、わたしを位置づける根っこ。

これまで、生きるとは何か、死とは何か、あるいはそれらの意味とは何かを求めてきた。その問いへの直接的な答えを探すのではなく、これからは、脈々と続いてきた流れを感じながら生きていきたいと思っている。

Bon voyage !!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?