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ざらりとさわり

一時期、わたしの顔には皮膚がなくて、生の肉をそのまま外界にさらしている感じがしていた。

皮膚がないもんだから、むき出しの肉に風が当たると、それそれは身に沁みる。

同様に、当時は、他人の感情やその人自身まで、わたしのなかに染み入ってくるようだった。

このときのわたしにとって、失われた皮膚とは、(心理的)他者との境界・世界との境界だったのだ。

むき出しの生肉に風が当たるというのはもちろん比喩なのだけど、それを音で表そうとすると「ざらり」という感じだった。

本当は「ざらり」ではないのだけど、発音するなら「ざらり」という音。

そして、なかなか表せなかったこの「ざらり」という音をつい先日、発見した。

琵琶の音である。
平家物語を語るときの琵琶の音。
(おそらく薩摩琵琶)

琴線に触れるという表現があるけれど、弦楽器はまさに心に触れる感じがある。

とりわけ琵琶の音は、残念な思いとか、理不尽な思い、不条理なんかを全て受け止めてくれそう。

琵琶は、さわりという構造があって、その音は多様な周波数の音を含んでいるそう。
これは、武満徹いわく、「西洋近代楽器の他を峻別するところに生まれた固有の音色とは対照的に、すべてを取り込もうとするところに生じた音色」らしい。

いろんな周波数が混じっている、区切りのない状態。

それは、自分(の一部)と外部世界との境界が曖昧な当時のわたしの、他人とわたしがいっしょくたになった状態にぴったりだった。
「ざらり」という感覚は、当時のわたしの状態を物語っていたのだ。

感覚、大事にしようと思う。

参考
『武満徹 エッセイ選 言葉の海へ』

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