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*お米作り珍道中

淡路島に移住するまで、
お米を美味しいと全く思わず、ほとんど食べていなかった私が、
なぜお米を作る事になったのだろうか。
自給自足をしたいとは思っていたので、お米も機会があれば作ってみようと考えていたが、
移住して2年目にその機会はやってきた。

その時97才だったじいちゃんが、
「お前、米作らんか」と言ったのだ。
「うん、作る」と即答した。
叔母からは
「辞めておきなさい、しんどいだけだ、買った方が安いから」と止められた。
その言葉は無視することにし、じいちゃんが作れと言っているのだから、自然農とかでなくていいから、じいちゃんからの指示で作ろうと思った。

とりあえず種籾を1升程、農協に行って買ってこい、
と言うので農協へ行き、種籾を買ってみた。
袋を開けて中を覗くと、
「Σ(・ω・ノ)ノ!」
米粒が、ドピンク色をしていた。

ばい菌がつかないよーに、と薬がかけられているのだ。
あまりに気持ち悪い色で、これを使うのは嫌だと思い捨てた。

幸い自然農仲間や先生から古代米の種籾を分けてもらうことが出来、それを使うことにした。

ここまで用意が出来たところで、肝心のじいちゃんが入院した(-_-;)

入院したじいちゃんは、私に米を作れと言った事も忘れてしまったかのように、
「次はどうしたらいいの?」
と聞いても何も教えてはくれなかった…。

しょうがないので、自然農塾で教えてもらったように苗代を作ってみた。
なんとか芽を出し、それなりに成長した。

が、全くのド素人である(;^ω^)
何をどーしたらいいのかさっぱり分からない。

じいちゃんは相変わらず何も教えてくれず、6月に植えるサツマイモの苗の事ばかり考えている。

もうすぐ田植えの6月の始め、突然じいちゃんが亡くなった。
「なぬ( ゚Д゚)‼」
私に米を作れと言い放ち、ここまでなんとか準備したのに、
なんで今死ぬの⁈

じいちゃんが死んでしまった事も悲しかったが、放置された私は途方に暮れた。

が、やらなきゃしょーがない。
人様にお願いして、代掻きしてもらい、なんとか田植えが出来る状態になった。

ウチの祖父母は農家だったので、
昔使っていた田植え定規というものがあって、それを使って田植えをしてみた。

ところが、これがまた使い方が難しく、真っ直ぐ進んでるつもりなのに歪んでくるし、
植えたい所に足跡で大きな穴が空いていたりして、上手くいかないものだから、
田植え定規もついには放り出し、目視で植えてみたりした。

不揃いな田植えをした後に、ヒエという雑穀が生えてくるのだが、
米の苗とそっくりで見分けが付かず、それも大事にしていたら、

「これは米ではなくてヒエだから抜きなさい」
と近所のおじさんに言われ、
かなり大きくなっていたヒエを暑い最中抜いて回る羽目になった。

それでもなんとか米を収穫する事が出来たヽ(^。^)ノ
昔は収穫した米を干した後、
足踏み脱穀機というもので脱穀し、唐箕で軽いものを選別し、
籾摺り機で玄米にしていた。
ウチにはそれらの古いものがあったので、やってみた。

おまんまにありつくまで大変な作業だった(;^ω^)

いざ初の自作の米を炊いて食べてみた。
「ガリッ( ゚Д゚)‼」
米の中に石が入っていた。歯が砕けるかと思った(;'∀')

叔母の言うことは本当だった…。
お米の有り難みがしみじみ分かった1年目となった。
いつ石を噛んでしまうかと恐々食べたが、ご飯が美味しいと初めて感じた。


2年目、3年目は自然農で米作りを始めた。
耕さずに草を刈って、溝を掘り、苗代を作って苗を育てた。

田植えが終わった頃、田んぼに芝が生え出した。
とても強い芝で、鎌で刈るのも一苦労、芝刈りは追いつかず、
田んぼは芝で覆われたΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン

当然、米は分けつできず、貧弱な米が育った。

食べるどころか、種籾を取るので精一杯だった( ;∀;)




それでも4年目、そこで米作りを続けるつもりだった私に、
近所のおじさんが、
「ウチの田んぼ空いてるから、米作りたい人がおったら貸したるで」と言ってきた。
「ああそうですか、そんな人がいたら声かけます」と答えておいた。

その次の週、自然農仲間数名が集まった。
そのうちの一人が、米を作りたいと思っている、と言い出した。
田んぼを貸してくれるおじさんがいる事を伝えた。
また別の一人としゃべっていたら、
「やっぱり米作らなあかんと思うねんなー」と言い出した。
なんだ今日は?と思いながら、
田んぼを貸してくれるおじさんがいるとまた伝えた。

あくまで他人事だった私は、
田圃を貸したいおじさんと、米を作りたい友人を紹介することにした。

ところが、その田んぼをみんなで見に行ったりしているうちに、
「私もやりたい」と数名の自然農女子が集まり出し、
わたしはご縁あって、その田んぼの近くに家を借りる事になったりで、
なんだかんだ言ってる間に私を含めた6人で田んぼをする事になっていた。

なんかおかしいなぁー、と思いながらも、一人でする田んぼは大変だったし、
皆でワイワイやるのも楽しそうだったので、進んでそれに巻き込まれた。

仲間とすることになったその田んぼは、1反ちょっとの山の田んぼだった。
山の田んぼは草刈りも多いし、イノシシやマムシもいて、それなりに大変だったが、仲間とする作業は一人でするよりも何倍も力が出た。

お米も無事に収穫することが出来、お米は1年分で有り余った。


余った米を使って初めての糀を仕込んだ。
調味料を作りたいと考えていた私は、
その糀を使って濁酒、味醂、味噌と様々な調味料を作り始めた。

とぎ汁や糠や藁も利用した。

お米はご飯として食べるもの、としか認識がなかったところから、
今ではお米は暮らしに必須なもの、になった。

そんな山の田んぼを仲間と6年続け、
米作りが板についた7年目からは自分の田んぼに戻り、
今年で13回目の米作りとなる。

その間、台風で倒れたり、ウンカが発生して枯れそうになったり、
日照不足だったり、肥料不足だったり、
水がない年があったりと、
毎年毎年何が起こるか分からない自然の中で、
強く、逞しく乗り越え、
厳しい環境を経験したウチの米は、
少々のことでは負けない強い種となった。
そして私も、「お米を育て、米を使いこなせる人」に変身していた。

「お前、米作らんか」
と無茶振りしたじいちゃんや、私を巻き込んでくれた仲間から、
どうやらとても大切なものを頂いたようだ。
ただの白い米粒だと思っていたものが、錬金術のように様々なものが産み出されたのだ。
お米を育て、加工するまで1年を通してのお米との関わりは
体力と、ご縁がある限り続けていきたい私のライフワークである。
 


いきるちからがつきました

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