見出し画像

ギーゼブレヒト伝に現れたレーヴェ(2)


 前回の記事「ギーゼブレヒト伝に現れたレーヴェ(1)」では、ギムナジウム教師にして詩人であり地域史研究家のルートヴィヒ・ギーゼブレヒト(1792-1873)が、同じくギムナジウム教師にして作曲家のカール・レーヴェと出会い、オラトリオを共同で創作するに至った経緯を略述した。最初に共同作業をしたオラトリオは、《七人の眠れる聖人》であった。

 ギーゼブレヒト伝の著者フランツ・ケルンによれば、ギーゼブレヒトはオラトリオの台本を書くに際して、ヘンデルのオラトリオとオペラの中間を狙ったという。オペラよりも簡素で舞台効果から自由な、それでいてオラトリオよりも劇的なものが彼の念頭にあった。

 当時のシュテッティンには、神学者で聖職者のカール・リッチュルがいた。音楽にも造詣が深かったこの人物は、しばしば歌の夕べを催し、ギーゼブレヒトもこれに招かれた。しかし彼はそこで、パレストリーナやマルチェッロやヘンデルやハッセの宗教音楽ばかりを聴かされた。このように宗教音楽を世俗音楽から厳しく分離することは、ギーゼブレヒトの精神に反することであった。聖俗の音楽の中間ジャンルを創出する試みが《七人の眠れる聖人》であったのだという。リッチュルはこの作品を聴いたとき、そこには何か認めるべき新しいものがあると言いはしたが、より後期のオラトリオに関しては判断を差し控えた。

 リッチュルはプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(レーヴェのパトロンであり、ギーゼブレヒトの主著『ヴェンド人の歴史』も高く評価した)のお供でオラトリオ《パレストリーナ》を鑑賞した際、王がそこに《七人の眠れる聖人》からの著しい進歩を見たのとは対照的に、異なる意見を胸に秘めて沈黙した。ジャンルの区別をなくしてしまうのがリッチュルには気に入らないのだろうと、ギーゼブレヒトは推測した。

疑いが私に忍び寄ってきたが、私はそれを鎮めた。レーヴェは落ち着いて怯むことなく、その道を先へと進んでいたからである。

Kern[1875: 92]拙訳

とギーゼブレヒトは述べている。聖俗の音楽の中間ジャンルを創出するという目標が、詩人と作曲家に共有されていたことが見て取れる。

 ところで興味深いのは、オラトリオに関してギーゼブレヒトが1834年のある手紙(宛先不詳)に、次のように記していることである。

私は次第に私のオラトリオを、独立した仕事と見なすようになっています。それは音楽があればなおよいですが、音楽なしでもやはり何物かなのです。

Kern[1875: 92]拙訳

「独立した(selbstständig, selbständig)」とか「依存しない(unabhängig)」とかいう語は、ケルンがギーゼブレヒトの性格を形容する際にも用いられている。ギーゼブレヒトはポンメルン州の長官から依頼された地域史研究の原稿の扱いをめぐって、長官と揉め事を起こしたことがあるという(Kern[1875: 62-63])。こうと決めたら譲らないような一面が、ギーゼブレヒトにはあったのであろう。オラトリオの台本をめぐるこの言葉にも、独立不羈の誇り高さが表れている。

 続けて手紙にはその夏に熟すべき詩業として、《オイディプス》と《七人の眠れる聖人》第2部の構想が披瀝され(いずれも実現されなかったが)、それらがヘーゲルの『宗教哲学講義』という地盤に生い立ったことが述べられている(Kern[1875: 92])。旧約聖書を扱った《鉄の蛇》もまたヘーゲルに触発された作品であり、レーヴェが作曲したこのオラトリオはマインツの音楽祭で演奏されることになるのだが、果たしてその成否やいかに? このことは次回のお楽しみとしたい。

参考文献
Franz Kern: Ludwig Giesebrecht als Dichter, Gelehrter und Schulmann. Als Anhang: Ferdinand Calos Leben erzählt von Ludwig Giesebrecht. Verlag der Th. von der Rahmer, Stettin, 1875.