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小説「蝶々と花」

 その雄の蝶は生まれつき小柄だった。卵から出た時から、同じ葉の裏で生まれた他の兄弟たちの半分程しか身の丈がなく、そのせいで歩くのも遅かった。芋虫は青葉を、歩きながら食べるものだから、必然的に、彼は他の兄弟よりも食べる速度も遅く、そのせいで成長が遅れ、時間の経つにつれ、他の幼虫との体格差はますます大きくなっていった。もちろん、体が小さいお陰で得た利点もあった。それは外敵に見つかりづらいということだった。彼の一番上の兄は、他の兄弟の誰よりも大きく、また葉をよく食べたのでぶくぶくと太っていたが、そのせいで鳥に目をつけられ、ある晴れた日にあっけなくついばまれた。同じようにして多くの同胞が大空へと連れ去られる中でも、彼はその小ささゆえに生き延びて来た。
 春が過ぎて、いよいよ幼虫たちは蛹へとその姿を変え始めた。彼も、他より一際小さい蛹になって羽化の時を待った。殻は硬いが、外からの光はぼんやりと透けて見える。彼はその光の中に鳥の影が見える度、恐怖におびえ、変化の途上にあってどろどろと崩れている自分の体を震わせていた。彼が成虫になるのを待つ間にも、蛹のまま、逃げることすらできないまま、多くの仲間が鳥や他の虫たちの餌食になって命を落とした。彼らがどんな惨たらしい最後を迎えたのか、その小さな蝶はついに知ることなく、無事、ある初夏の日の早朝に羽化の時を迎えた。
 蛹を割り、まだ日が昇る前の森に吹く柔らかな風の中に、手に入れたばかりの翅を晒すと、空気の温度がしたたかにその翅に伝わった。そのくすぐったい感覚に彼はぶるりと身を大きく震わせた。
 蝶は成虫になると、やらねばならない日課が幼虫の頃に比べて一つ増える。幼虫の頃は、食べる、寝るの二つでよかったものが、成虫になると、食べる、寝る、伴侶を探してあわよくば交尾をする、の三つになるのである。無論、始めのうちはそんな本能的な欲求には誰も気づかない。全ての個体が等しく、手に入れた新しい翅で空を飛び、これまでとは比較しようのない、新たな世界の自由さに耽溺する時間を経験するからだ。見るもの聞くもの、全てが美しく見え、今なら何でもできる気がするという全能感によって、個々の自尊心が高まってきたところでようやく、彼らは遺伝子に刻まれた、子孫を残せという指令を、それが指令であると知らぬままに実行し始めるのだった。
 あの小さな雄もまた、全能感に泥酔しながら伴侶を探した。自分が一声かけさえすれば、なびかぬ雌などいない、とそう思っていた。しかし、実際には彼の求愛に応える雌は一匹たりとも存在しなかった。彼の触覚、胴、翅は、他の雄のそれと比べて一回りも二回りも小さく、そのせいで花の蜜を吸うのは下手で、飛ぶ力も弱く、力比べでも負けてばかりだった。繁殖もまた、生存戦略なのだ。雌の蝶は、弱い彼には目もくれず、こぞって体の大きな蝶とばかり交尾をした。
 彼が、雌から見た自分の価値がどれほど低いものであるかに気付くまでには、そう時間はかからなかった。一度気付いてしまった後では、もう雌に声をかけることはできなくなった。これまでに自分が近づいた雌たちの、あの何とも言えない表情の意味を理解してしまえば、もう自信を持つことなどできそうになかった。
 そんなわけで、彼は来る日も来る日も、繁殖の相手を探すことはせず、のらくらと森の中を飛んで遊び惚けるようになっていた。
 誰も知らない景色のいい場所を探したり、寝心地の良い葉を探したりと、無理に子孫を残そうとしなくとも、楽しみはいくらでもあった。彼はいつでも、そうした娯楽に意識を研ぎ澄ませ、しかしふとした瞬間に何度も自分の体の小さいこと、またそのハンディによって自分が被ってきた数々の不利益を思い出して嫌になった。彼は卑屈に、厭世的になっていった。
 夏も更け、いよいよ昼間の暑さが本格的になって来たある日のことだった。その日は朝から鋭い雨が降っていた。針のような雨粒は、背の高い木々の手に当たって砕け、小さな欠片になって森の地面に注いだ。地面の近くでは、落ちて来た水滴が落ち葉や土に激突して弾け、その飛沫のせいで軽く霧がかっているようだった。彼はしばらく、翅に受ける雨粒の感触を楽しみながら木々の間を飛んだあとで、疲れて、目に留まった低木の一枚の葉の裏に身を隠し、翅を畳んだ。
 いくら鱗粉があるとはいえ、激しく体を雨に打たれながら空を飛ぶのは蝶にとっては苦痛だ。だから、雨の日はほとんど他の蝶を見かけない。彼は雌雄関係なく、自分の視界から鬱陶しい他のやつらを消してくれる雨をこよなく愛していたし、他の蝶が嫌う雨の中を飛ぶことで、他の蝶が苦しくて逃げ出す雨の中を、自分だけは飛んでいるのだという、ただ自分にだけしか示すことのない空しい虚栄心を満たしてもいた。しかし、一度飛ぶのを止め、体を休ませ始めてしまえば、また、例の厭世的な気分がやってきて、彼の小さく細い胸の内を自虐と己の不幸への呪いの言葉で満たしてしまうのだ。そうして、自分で自分を責めることに夢中になっていたせいで、彼は始め、自分に呼びかける声があることに気が付かなかった。
「・・・し。もし、そこの貴方」
 何度目かの呼びかけに、ようやく蝶は意識を外界へ向け、躊躇いがちに返事をした。
「それはもしかして、僕に言っているのかい?」
「えぇ、そうよ」
 声の主は、向かいの立派な楠の下にちょこんと生えた、一輪の花だった。楠の葉でも防ぎきれず、その隙間をすり抜けて落ちて来た雨粒が、彼女のなまめかしい桃色の肌をなぞって流れ、その曲線美を描き出す。声は決して上品とは言えなかったが、この雨の中にあっても朗らかで、どこか親しみやすさを感じる凡庸さ、俗っぽさを持っていた。
「ね、素敵な貴方。ちょっとこっちへ来て、私の蜜を吸ってみない?私、ようやく蜜を作れるようになったのに、背が低いものだから、誰も吸いに来てくれなくって、困っているの」
 蝶は少し迷ったが、体にまとわりつく疲労を押し殺して、彼女の方へ飛び始めた。それは、素敵な貴方、という呼び方が、彼の中で微かに息をするのみになっていた自尊心をくすぐったせいでもあったし、また、自分と同じように体の小さいせいでペナルティを背負わされている彼女に対して、少なからず同情したからでもあった。
 彼は花弁を脚で優しく掴んで、自分の頭の位置を、丁度彼女の顔を正面から覗くように整えた。
「それじゃあ、頂くことにするよ。けど、いいのかい?僕みたいなのが、君の折角の一番をいただいても」
 卑屈さの滲み出たその遠慮に、花は鈴のように笑って答えた。
「ええ、もちろん。むしろそんなに私の蜜を良いものだと思って大事にしてくださるひとが、私の初めてをもらってくれるのだから、こんなに嬉しいことはないわ。さ、どうぞ吸ってみて。貴方のお口に合うといいのだけれど・・・」
 蝶は意気地なしだったから、最後の最後まで、彼女の誘いに乗ることを躊躇って、けれど最後には腹の虫と彼女の肯定的な態度に屈服し、その細い口吻を伸ばした。鋭いその先を、彼女の雄しべの根本に挿しこみ、ゆっくりとその蜜を吸ってみる。
 瞬間、溢れるほどの快楽が彼の脳を浸した。彼は口吻が溶けてなくなるのではないかという錯覚を覚え、束の間、意識を失いかけた。脚に力が入らなくなり、そのまま落下しそうになったが、もう少しというところで、はっと意識を取り戻し、何とか落ちないようにと、咄嗟に花の花弁を強く脚で掴んだ。それが少し乱暴過ぎたのか、反射的に、花が
「痛ッ」
と小さく悶えた。
「あ、ごめんよ、つい・・・君の蜜があんまり甘いものだから」
「ううん、いいの。美味しいと思ってもらえたのなら、私、それで満足だわ」
「しかし、本当においしい。君のは、今まで味わった蜜の中でも一番だよ」
「まぁ、お上手ですこと」
 蝶の言葉は本心だった。彼が今しがた味わった蜜の味の良さは、あえて毒に喩えることでこそ、よく伝わるだろう。それは確かに毒だった。他の蜜をもう飲めなくして、彼女以外の花では満足できないよう、蝶の味覚を作り変えてしまう強烈な猛毒だった。その恐ろしさに、純粋な蝶は気づかず、雨のやむまで、その甘さを褒め称える言葉を口にし続けた。彼が話す一つ一つの褒め言葉に、花はいちいち、少し恥ずかしそうに笑って、礼を言った。そうして時折、
「貴方って優しいのね」
などと、ちょっとした褒め言葉を返した。彼女のそういう、気遣いのできるところが、蝶にとっては好ましかった。
 雨が上がり、雲の切れ間から夕陽が挿した。草木が纏った雫の一粒一粒が、空の茜色を宿して輝き、薄暗い森の中をきらびやかに飾り立てる中、蝶は飛び立った。その別れ際に、
「その・・・また、明日来てもいいかな」
と蝶はおずおずと言った。花は願ってもないという様子で、
「えぇ、えぇ、きっと来てね。お待ちしていますから。約束ですからね」
と、蝶の姿が見えるまで言い続けた。
 次の日から、蝶は毎日、その花のもとへ通うようになった。蜜は花の体調や、周囲の気温に応じて、毎日微妙にその味を変えたけれど、蝶にとっては、その日々の変化さえも魅力的だった。加えて、逢う度、
「今日のも、お口に合えばいいけれど・・・」
と自信なさげに言う彼女の謙虚さが好ましく、蜜を吸っている間の快楽も、その余韻を宿した慎ましやかな会話も、何もかもが、厭世的になっていた彼の心を癒した。
「君は蝶なんぞよりもよっぽど魅力的だよ。あいつらは一度仲良くなっても、朝になったらどっかへふらふら飛んで行っちまって、その度に探さなきゃならないけれど、君はいつでもここに居て、僕を待っていてくれるんだもの」
 蝶はすっかり、その花と蜜の虜だった。
 そうして、一匹の小さな蝶が花の蜜に完全に魅了されきった頃には、いよいよ夏も深まり、昼間の森にも、鬱蒼とした熱気が立ち込めるようになっていた。風の中に漂う湿気は濃く、どろりとしていて、翅を重く感じさせる。そんな日であっても、彼は構わず、小さな翅を何度も必死にはばたかせて、一心にあの花の下へ向かうのだった。見慣れた景色の中を抜け、あの楠の下へいつも通りたどり着いて、しかしそこで目にした、いつもとは決定的に違う景色に、彼は絶句した。
 花はいつも通りそこに居た。暑さのせいか、艶やかなその顔を、ここ最近ずっとそうしているように少し俯かせている。その顔に、知らない蝶が張り付いて、蜜を吸っているのである。遠目から見てもわかる、大きな翅と、立派な触覚。間違いなく、雄の蝶だった。それも、彼が決して敵わない強者だ。
 彼は激しい憤りを感じたが、始め、その怒りの根本が何であるのか分からなかった。ただ最初からはっきりしていたのは、たとえ腹の中に、森を一夜にして焼いてしまうおぞましい炎のごとき熱を感じたとしても、彼自身はその熱に浮かされるがまま、あの花の蜜を吸う強者に戦いを挑むだけの度胸はなかったということである。そう気が付いた時、彼は自分の中でじわりと拡散していく熱の中心に何があるのかを理解した。彼は自分の感情を、直ちに実現できない自分の体の弱さを呪い、そして何より、体の小ささのせいで、勇気さえも失ってしまった自分の内面を恥じていたのである。自分に対して向けられたそんな否定の感情は、あの強者の姿を見ているうち、段々と、あの雄と花へも向けられ始めた。
 強者に対して彼が抱いた怒りは、その強欲さに対するものだった。奴は体も大きく、力も強いだろうから、きっとさぞかし雌にちやほやされて、多くの伴侶を見つけ、既に子孫を残していることだろう。それは決して、小さな体を持って生まれた彼にはできなかったことであり、だからこそ、他の何かで自分を満たそうと、言ってしまえば現実逃避をして、あの花の下へ通っていたのだ。だというのに、自分が望んで止まないものを既に持っているあの雄は、自分がたった一つ大切にしている場所にさえ、土足で踏み込んできてしまった。彼は木陰に止まって雄の姿を眺めながら、嫉妬とも呼べるその感情に身を焼かれていた。
 そしてもう一つ、彼が花に対して抱いた怒りは、彼女の節操のなさに対するものだった。毎日同じ時間に来て、必ず蜜を吸う自分に対し、散々礼や褒め言葉を吐き散らしておきながら、いざ別の蝶が来たら、今のようにうっとりとして、じっとその口吻を受け入れている。今日だって、自分が来ることが分かっているのだから、別に、何かしら断るような仕草ぐらい見せて、あの蝶を追い払ってくれればいいのに。
 この二つの感情は、いわば力のない自分の置かれた、理不尽な状況への憤怒だったわけだけれど、この怒りにじっと身を浸していると、結局また、その二つの怒りの矛先は自分の方へ返って来た。つまるところ、自分があの雄を押しのけられるだけの力を持っていれば、それで済んだ話なのだ。全ては力を持って生まれなかった自分の責任であり、それ以上もしくはそれ以下の問題ではない。と、こんな結論に至ってしまうのだから、この蝶の自信の無さは筋金入りだった。
 木陰から、強者と花のやり取りを覗き見る時間が、果たしてどれくらい長かったのか、彼には分らなかった。日の高さはちっとも変っていなかったから、大した時間は経っていないはずなのに、自分の感覚がそれを否定していた。あまりに夢中になって二人を見つめていたせいで、時間の感覚が狂ってしまったようだった。
 強者の雄は、蜜を吸い終えると、何も言わず、雑に花弁を蹴って飛び立ち、その場を後にした。花はその乱暴な扱いのせいで、少しの間、体を揺らした。揺れの収まったところで、花は小さく息を吐いた。
「・・・おはよう」
 俯いたままの花に、彼は近寄って声をかけた。何も知らず、たった今ここへやって来た風を装って。
「あぁ、おはよう。蝶々さん。今日も来てくれたのね。でもごめんなさい、今日はちょっと、蜜をご用意できていなくて・・・」
 花は、さっきの強者の蝶の話はしないつもりらしかった。そのことが何故だか、ひどく彼の心を傷つけた。
「いや、いいんだ。毎日来てるんだから、そういう日だってあるだろう。こっちこそ、休みなしに来て悪いとは思ってるよ」
「そんなことないわ。貴方が来てくれるの、私毎日楽しみにしているもの」
 ならどうして、さっきの蝶を追い払わなかったのか、という言葉が漏れ出そうになるのを、彼はぐっと堪えた。言ったところで起こったことが変わるわけではないし、そういう文句を言うことで、彼女との関係に傷がつくのも怖かった。
 その日は結局、蜜を吸うことは叶わなかった。充分な量の蜜を作るには、丁度一日くらいはかかるらしく、また明日来てほしいというのが花の言い分だった。蝶は何も言わずそれを受け入れて、夕暮れまでただ花と会話をして時間を潰した。今までは落ち着いて、ただぼんやりとしていられるものだったその会話が、緊張と不安に満ちたものに変貌していることに蝶は気づいていた。それはもちろん、彼が花の機嫌を損ねないように、また花が自分に蜜を吸わせたいと思ってくれるように、口に出す言葉に気を遣い始めたからだった。いつになく頭を使ったせいで、花と別れた後の彼はひどく疲れていた。頭が重く、その跳び方は平時よりも弱弱しい。彼はお気に入りの寝床へ帰ることを諦め、花のもとからそう遠くない場所にある、一本の木の下で眠ることにした。もちろん、それは疲れていたからでもあったし、こうすることで、翌朝はより早くに花の下へ行き、蜜を飲むことができると考えたのだ。あの大きな雄と戦っても勝ち目はない。ならば奴が来る前に、花のもとへ行って、蜜を全て吸ってしまえばいいのだ。
 そこまでするくらいならば、いっそのこと、花の目の前で眠ればいいのではないか、と思う人もいるだろう。けれど、その選択は蝶にとっては論外だった。彼にとって、あの花のところへ向かうのは、蜜のためと、彼女と話したいからだった。それは決して恋ではなかったけれど、それに近いものではあったかもしれない。ともかく、彼はそういう、自分が他者に向けて好意を抱いているということを過剰に隠したがるところがあった。あまり露骨に好意を向けてしまえば、相手が嫌がって逃げてしまうと思っていたのである。そしてやっぱり、これもまた、自信のなさゆえの思い込みだったのだろう。
 次の朝、彼は体に残る疲労を我慢して、花の下へ向かった。早朝の森の中は、静寂に包まれている。最近は昼間の気温も少しずつ過ごしやすくなってきているし、まだ日の低いこの時間なら、気温も一層低く、迷惑な蝉の合唱も聞こえない。彼は今度から、この時間に森を散策するのもいいかもしれない、とぼんやり考えながら、大きく息を吸って、朝の空気を味わった。花のところに到着してみると、期待通り、そこにあの雄はいなかった。彼はこれ幸いとばかりに急いで花にしがみついた。
「あら、おはよう。今日はまた随分とお早いのね」
「うん、まぁね。昨日ちょっと早く眠ったせいか、目が覚めちゃったんだ。ね、それで、蜜の方はどうだい」
「えぇ、もちろん。準備できてるわ・・・」
 そう答える花の声には、どこか、いつもの快活さがなかった。見れば、ハリのあった花弁も、少しずつその瑞々しさを失って、よれて皺ができてしまっている。
「どうかしたのかい?なんだか元気がないようだけれど」
 蝶は心配になって言った。花は小さく笑って答えた。
「えぇ、今年はもうすぐ、店じまいになりそうなの。夏ももう終わるから・・・」
「夏が終わったら、どうなるんだい」
「この顔が無くなって、実ができるわ。貴方が毎日来てくれたおかげよ。ありがとう」
 嬉しそうにそう話す花とは対照的に、蝶は口吻を伸ばすのも忘れたまま、焦ったように、
「それじゃ、もうすぐ蜜を吸えなくなるってのかい。そんなの困るよ」
「困るってったって、どうしようもないのだから・・・仕方ないじゃないの。花は季節が終われば散るものなのよ。それに、貴方だって、夏が終われば、どうせ蜜なんて吸いに来られないでしょう」
「どうしてそんなことが分かるんだい。僕はいつまでだって蜜を吸いに、君に会いに来るさ」
 大きな声を上げる蝶に、花は一言、
「無理よ」
と答えた。蝶はそのたった一言に面食らってしまった。それは彼女が蝶に示した初めての、明確な否定だったからだ。
「・・・どうして、無理なんだい」
「あら、分からないの?」
 花は当然のことだという風に、そのままの調子で、
「だって貴方たち、秋になれば死んでしまうもの」
 その響きは、蝶の胸に突き刺さって、彼の心を素早く縛り上げた。自分の呼吸が浅くなるのを感じながら、彼は死という言葉からいくつもの光景を連想した。
 森の中に居れば、死を目撃する機会なんてものはいくらでもある。そこらに落ちている落ち葉、枯れ枝、狡猾な蜘蛛の網、空を舞う鳥たちの影。彼とて、今までに何度も命の危険にさらされたことはあったし、その度になんとか逃げ延びてきたから、今生きている。だから彼は、死というものは、その場の努力でなんとか回避できるものだと思っていた。しかし花の言い草からすれば、今度のそれはどうやら違うらしかった。秋になれば死ぬ。それはいわば、刻限、期限のようなものなのかもしれない。理性ではそう考えたけれど、蝶はそれに納得がいかなかった。仮に命に始めから刻限があるというのなら、自分は一体何のために生まれて来たというのだ。
「それはもちろん、」
と、やっぱり花はいつもの微笑のまま答えた。
「少しでも長く生きて、子孫を多く残すためでしょう」
 彼は花の答えを聞いた瞬間、思考を停止した。そうしないと、命の意味なんてものを考えることを止めないと、もう取返しのつかない奈落に引きずりこまれてしまう気がしたからだ。一度そんな場所に入ってしまえば、彼の小さな翅では二度と出ては来られないだろう。
「さ、貴方もきっと、私とは違う方法で沢山子孫を残したのでしょう?私ももう長くこの姿ではいられないけれど、せめてこの花が咲いている限りは、貴方に蜜をあげる。ほら、ね。どうか私の蜜で、貴方の余生を彩って頂戴」
 言われるがまま、ほとんど放心したままで、蝶は口吻を伸ばした。蜜は甘かった。この上なく甘かった。これほどまでに美味いものは、しかし、もうあと少しの時間が経てば、永遠に失われてしまう。
 蜜に限った話ではない。今までだって、多くのものが失われた。その一つ一つを今になって後悔しても遅いのに、とめどなく悲しみが溢れてきて、それを誤魔化すようにして蝶は口吻で蜜を強く吸った。吸って、吸って、もう何もでなくなるまで吸いつくした。
 蝶に涙腺はない。だから涙は出ない。けれどきっと、彼が涙を流すことができる生き物だったなら、その雫はきっと、いつかの雨のように際限なく零れ落ち、彼女の花弁を伝っただろう。
 蜜を吸い終えると、蝶は何も言わずにその場を飛び去って、二度と姿を現さなかった。彼が何をしながら最期の時を待ち、どんな風に死んだかは、この森の中に居るものでさえ、誰も知らない。
 彼の悲しみは、この森の全ての命にとって、語るに値しない物語だったのだ。
 そのうちに夏は終わり、蝉の合唱も消え、木々は衣替えの用意を始めた。森には日がな一日、夏の早朝のそれよりもずっと冷えた空気が漂うようになり、春夏と森の中で栄えた多くの命がその中に姿を消した。あの花も、いつの間にか散り、花のあったところに赤い大きな実をつけていた。彼女は段々と熟れていくその光沢のある実の肌を恍惚とした表情で眺めながら、実が落ち、その中にいる我が子が森のどこかで芽吹く瞬間を夢想していた。彼女の頭の中には、もはや小柄な一匹の蝶の姿も声も、その形を留めてはいなかった。
 季節は秋である。もうじき冬が来るだろう。

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