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この道はどこに続くのか。

思えば、何だかんだと勉強をしている。

別に「勉強が大好き」ってわけじゃない。
むしろ幼少期から何となく「自分は、無理をしなくても、どうにかなる」と思っていたフシがあり、あまり真剣に物事に取り組んでいなかった。

きっと大成はしないけれど、不幸になる事もなかろう…と思っていた。
たぶんそれは単なる、世間知らずの「馬鹿ゆえの発想」だったと思う。

何の根拠もなく、
きっと、そこそこ恵まれた生活が、一生保障されていると。
そのエリア内で、思うように泳いでいれば、そこそこの人生が歩めると。

そんな風に思い込んでいた。
でも、高校に入った頃に、段々と気づいていったような気がする。
頑張らない手抜き人には、頑張らないなりの生活が待っている…と。

幸か不幸か、自分の周りには偶然、お勉強が出来る人が数名居て。
彼らは、瞬発力なのか、少しずつ蓄えたのかはよく判らないけれど、
受験などの大事な関門をくぐるための、戦力やパスポートを持っていた。

私は「ここで頑張らなくてどうする」という時に限って。
亀のポテンシャルしかないくせに、
ウサギのように胡坐をかいて、冷めた横目で皆のレースを眺めていた…。

社会に出る頃にようやく
「あれ??私、戦力もパスポート何も持ってないぞ…」と気づく。
そこから長い間、「丸腰で社会を渡り歩く、心もとなさ」を携えてた。

勉強面ではなくて、他の才能を発揮する人もいれば、
生まれながらに高いポテンシャルを誇る人もいるけれど。

少なくとも私は、その ↑ どれにも該当しない。

歳を重ねたらどうにかなるかと思ったけれど、そんな事もない。
丸腰で歩いてる感が、いつまでたっても払拭できなくて。
「これが、コンプレックスというものなのか」と思ったり。

足りなさに気づけば気づくほど、その穴にパッチをあてようとする。

今居る場所が、本当に恵まれてていて、充足している事も知っている。
でも「私自身に足りないものが沢山ある」事も、私が一番知っている。

だから、パッチをあて続けなくてはならない。、
もはやパッチをあて続けることが、精神安定剤になっている気もする。

夫や兄からは、よく、放送大学や中央大学の件で
「キミはいったい、何がしたいんだ」
と尋ねられたけれど。

何かがしたい…というより、
もう「パッチを充てる行為で、心の安定を保ちたい」のかもしれない。

IT系の資格をとりまくってた時(MCPは9つ所有)も。
それ以外の資格(法律系や趣味=茶道も)も。

ライセンスを持つことで、拠り処を作り、ホッとしたいんだと思う。

たしかに資格や学習歴は、自分の心を少し穏やかにする効能はあるけど、
それらが、日々の戦力やパスポートになるかというと、
それはまた別の話。

学位を獲り、教養の小ネタを拾い集めても、活きているかと言えば
正直まだ、その種は「開花」はしていない。発芽前だと思う。

だけど。

続けていれば、いつかは何処かに辿り着く。
永い時間を掛ければ、芽が出て幹に葉をつける日が来るかも…。
そう信じる事にする。

いいんだ。死ぬまでずっと、自分のやりたいように出来たら本望。
今は、その機会と時間があるのだから、続けていこう、思うままに。
時折、脱線して、ゴールすら見失うかもだけれど。

きっと遠からぬ将来、時間や体力や資力が減退する日が来る。
その時は否応なく、リタイアメントを迫られる。
それまでは、ゴールを目指しながら、続けてみよう。

ゴール地点がどこなのか。
それは歩きながら、徐々に見据えていこう。
ゴールもコースも、自分で決めればいいんだから。