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意味もなく夢中になれること。それこそが趣味。


夜の公園でサッカーのリフティング練習に励んでいる。
学生以来あまりに久しぶりにボールに触っているので、最初はおぼつかなかったものの、次第に100回を超えられるようになってきた。

かつては、爪先だけでちょこまかとリフトして回数を稼いでいたけれど、YouTubeで基礎学習をした結果、きちんと足の甲(インステップ)にミートさせ、ボールを膝や腰までの高さに上げ、できれば無回転で同じ高さをキープする方法を試している。
ボールを一定の高さに上げる分、爪先でこまめに操るよりも難易度が高い。ボールの芯を捉えないと、定位置にコントロールできない。

こんなことは、昔は誰も教えてくれなかった。
我流という名の“闇雲”だったから、上達が遅い上に、頭打ちが早かった。
今はネットで「正解」を教えてくれるので、あとは的確に「実行」する、という時代になっている。Just do it。無駄な回り道がなく効率もよく、きっと失敗の数も減るので、上達が速くなる気はする。その先で頭打ちになるかは、今はよく判らない。
ある程度こなせるようになったところで「飽き」がくるのだろうとも思う。次の課題を見つけて挑まない限り、好奇心を保てないような気がする。
しかし今はもう、それでもいいような気がしている。

そもそも「たかが趣味」の「球遊びごとき」に無心になれている自分が、少し意外だった。
これまで「プロになれるわけでもない人たちがスポーツに打ち込んでいる」ことが滑稽で仕方なかった。身体的な運動効果は得られるにしても、「それは人生の役に立つの?」と冷めて眺めていたし、「暇な人間はいいよね」くらいに羨望と侮蔑がないまぜとなっていた。(もちろんそれを面と向かって口に出すほど迂闊ではなかったものの)

裏を返せば、自分の境涯にそれほど余裕がなかったのだと思う。
「そんなお遊戯に興じる暇があったら、もっとやるべきことをやったほうがいい」という内なる声が聞こえてきてしまうのだ。だからといって「やるべきことができていた」わけでもなく、常に得体の知れぬ焦りに駆られていただけだった。

今は、再び少年のころのような心持ちで、純粋な趣味に回帰できている。これは自分の中では途轍もなく大きな旋回だ。
趣味に「意味」なんてなくていい。
むしろ「人生の役に立つ」という姑息な打算がある時点で、純然たる趣味とは呼べない。どこまでやっても、どこにも回収されない、無意味で無価値な、それでもなぜか夢中になれること。それこそが趣味だ。

リフティングも、たとえどれほど上達しようとも人生の役には立たないだろう。サッカーチームに入る予定もないし、さしたる自慢にもならず、承認欲求が満たされることもない。純然たる自己満足。いや、本当に自己満足しているかもじつは疑わしい。(これが本当に自分の深部にある情熱とつながるならば、「生きがい」と呼んでよいはずだけど、リフティングはそこまでのものでもない)

そんなことよりも、小さな一つのことができるようになると、少なくとも一つの達成感がある。
これが大事で、これが総て。
もし人生の役に立つとすれば、達成した内容ではなく、この手応えにあるはずだ。次の課題を見つけてクリアすれば、また手応えが増える。そして、もしかしたら他の事柄でも一つずつ手応えを得られるかもしれないという淡い期待を抱けるようになる。
そのとき、人は新しいスタートラインに立っている。

人生の中盤を迎え、もう一度「スタートラインに立てた」という気分は、誰に褒められる必要もないくらい、自分にとっては喜ばしい達成なのだ。

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