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19世紀フランスのバルビゾン派の画家 ジャン=フランソワ・ミレー


明日は、19世紀フランスのバルビゾン派の画家である、ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet、1814年10月4日 - 1875年1月20日)の誕生日です。

ミレーは、パリ郊外の農村バルビゾンに移住し、貧しい生活を送りながら農村生活を描いて、多くの傑作を残しました。

下記「目次」の「ギャラリー」の項目以下において、ミレーのいくつかの作品を鑑賞することができます。

ジャン=フランソワ・ミレー

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ナダールによる肖像写真(1856年-1858年頃)

小学館の日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように記載されています。

フランスの画家。10月4日、ノルマンディーの小村グリュシーに生まれる。


農民の子でありながら、ウェルギリウスやテオクリトスなどのラテン文学に親しみ、1833年シェルブールに出て絵を学んだ。
37年には市の奨学金を得てパリに出、しばらくはポール・ドラローシュに師事。40年のサロンに肖像画が1点入選、以後、数多くの肖像画を手がけるとともに牧歌的情景を描いた。やがてプサンやミケランジェロに対する崇敬の念を強め、46年ごろからより力強い手法で、宗教的・神話的主題裸婦像、そして農村の風俗を描くようになった。48年、二月革命後の無審査のサロンに出品した『箕(み)をふるう人』(焼失。現ルーブル美術館のものはレプリカ)は、ヒロイックな農民の姿を描く画家としてのミレーを決定づけることになり、以後、農民の主題があらゆる主題にとってかわる。翌49年、政府から作品制作の依頼を受け、その報酬でバルビゾンに移住し、残りの生涯をこの地で過ごすことになる。
生存のための苦しい労働を描こうとするミレーの姿勢は、農村の人口が都市に大量に流出し、農村が荒廃する時代を反映するものであった。しかし彼は、ブルジョア批評家が考えたような急進的な社会主義者などではなく、いわば宿命論者であった。60年代以降しだいに風景画に専念するようになる。67年レジオン・ドヌールを叙勲さる。75年1月20日、バルビゾンに没。代表作に『落穂拾い』『晩鐘』『羊飼いの少女』『春』(以上ルーブル美術館)、『種をまく人』(ボストン美術館)などがある。なお、甲府市の山梨県立美術館には『種をまく人』(別作)をはじめ油彩、版画など30点が収蔵されている。[大森達次]

ジャン=フランソワ・ミレーの収蔵作品へのリンク
https://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/collection/millet/

また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「ミレー神話の流布」および「日本」として次のように記載されています。

ミレー神話の流布

ミレーの支援者であり友人であったアルフレッド・サンシエは、ミレーの伝記を執筆した。1877年、ミレー伝のうち1864年末のところまで執筆したところでサンシエは亡くなったが、美術評論家のポール・マンツが、サンシエの残したメモを編纂し、1881年、伝記『ジャン=フランソワ・ミレーの生涯と作品』をパリで刊行した。この伝記は、道徳的で、信仰深く、清貧で、農民として生きた画家という「ミレー神話」を、熱っぽい文章で伝えるもので、各国語に翻訳されて、人々が思い描くミレーの人物像に大きな影響を及ぼした。しかし、実際には、ミレーは父の農作業を手伝って育ったものの、農民として生活したわけではないし、貧乏というのも誇張があり、必ずしも客観的な事実を反映しているわけではない
画家フィンセント・ファン・ゴッホは、サンシエの伝記を読んで感激した1人であった。ファン・ゴッホは、1882年3月、ハーグでこの本を読み、弟テオドルスに、「ねえテオ、ミレーとはなんと大した男だったのだろう」と感想を書き送り、その後も伝記から度々引用している。
サンシエの伝記に疑問を提示したのが、イギリスの美術史家ジュリア・カートライトであった。1896年、ロンドンで出版した『ジャン=フランソワ・ミレー、生涯と書簡』の中で、バルビゾンのミレーの家は、サンシエが家主から買い取ってミレーから家賃を取って貸していたこと、ミレーの没後、サンシエが急に家賃を上げて遺族の追い出しを図ったことなどを明らかにした。ミレー夫人が、サンシエの伝記では夫が余りに陰鬱に描かれており、誤解を与えるという不満を持っていたことも明らかにした。
他方、ロマン・ロランは、サンシエの伝記に基づいて、1902年にロンドンで『ミレー』を刊行した。サンシエやホイールライトの伝記から感動的な部分を取り入れた偉人伝となっているが、過大な礼賛となってしまっている。
1921年、エティエンヌ・モロー=ネラトンが3巻の伝記を刊行した。これは、サンシエの伝記の誤りを正しミレーの書簡や記録を豊富に収録し、客観的な記述をするものであった。

日本

日本に初めてミレーに関する情報がもたらされたのは、1876年(明治9年)にお雇い外国人として来日したアントニオ・フォンタネージによってであった。フォンタネージは、バルビゾン派の流れを引くイタリア人画家で、1855年のパリ万博でミレーの『接ぎ木をする農夫』を見ており、ミレーの複製画をもたらした。その教え子であった高橋由一はミレーの複製画を複写しており、同じく教え子の浅井忠は、ミレーの作品を翻案した『収穫』(1890年)を製作している。

なお、高橋由一については、下記の記事をご参照ください。

明治20年代から明治30年代にかけては、パリに留学していた日本人画家たちが次々バルビゾンを訪れた。1887年(明治20年)5月、黒田清輝がフォンテーヌブローを訪れ、翌1888年(明治21年)11月にバルビゾンを訪れた。浅井忠も、留学中の1900年(明治33年)以降、バルビゾンを訪れた。原田直次郎は、ドイツ留学の帰りにルーヴル美術館で『落穂拾い』を模写した。1890年(明治23年)の明治美術会第2回展覧会には、賛助会員でパリ在住の画商林忠正がミレーを含むバルビゾン派の作品を出品した。
刊行物としては、1893年(明治26年)にシカゴ万国博覧会の開催報告書で、久保田米僊が木版画で写した『鍬に寄りかかる人』と『落穂拾い、夏』の図版が木版画で掲載された。本格的な紹介は、岩村透が1902年(明治35年)から翌年にかけて『美術新報』に「画傑みれー伝」と題して連載したのが初めてである。この連載は、ニューヨークで刊行された『晩鐘の画家 ジャン=フランソワ・ミレー』を基にミレー神話を伝えたもので、反響が大きく、連載中に二つの出版社からミレーの画集が出版された。夏目漱石も、ロンドン留学中に読んだ美術雑誌Studioの1902年冬号に掲載されたモノクロ図版を手本に模写したり、1907年の『文学論』でミレーについて論じたりしている。また、荻原碌山はロマン・ロランの伝記に感動し、ミレーの作品に宗教性を見出している。
1902年(明治35年)には高山樗牛が『文藝界』で『晩鐘』と『落穂拾い』の図版入りでミレーを紹介した。1906年(明治39年)には、岩村透が、ミレー伝を含む『藝苑雑稿』を刊行した。また、1914年以降、ロマン・ロランの英語版伝記の邦訳が複数出版された。このように、日本におけるミレー理解は、英語からの翻訳によるもので、フランス語の原典は無視されてきた。なお、ポスト印象派の画家を熱心に紹介した雑誌『白樺』では、ミレーの扱いは冷淡であり、1917年(大正6年)5月号に『バルビゾンのミレーの家』が表紙を飾ったのと、1920年(大正9年)にカートライトのミレー伝を福田久道が抄訳して掲載した程度である。ただ、有島武郎は、1917年の『新小説』に「ミレー禮賛」という熱烈な評論を書いている。明治末期から昭和初めにかけて、ミレーは熱心に日本に紹介されたが、本物の絵が輸入されないこともあって、画家としてよりは道徳的な偉人として捉えられていた。
1923年(昭和8年)、岩波書店の創業者岩波茂雄は、文化の種をまくといった意味で、ミレーの『種まく人』を社のマークに採用した。
1978年、山梨県立美術館が購入した『種まく人』が公開され、改めてブームが起きた。

ギャラリー

『尼僧のオウム(ヴェル・ヴェル)』1839-40年。油彩、キャンバス、32.5 × 40 cm。私蔵。

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『ジャヴァン氏の肖像』1841年。トマ=アンリ美術館。

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『ルイーズ=アントワネット・ファルダンの肖像』1841年。油彩、キャンバス、73.3 × 60 cm。ゲティ・センター。

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『自画像』1841年。トマ=アンリ美術館。

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『部屋着姿のポーリーヌ・オノの肖像』1843-44年。油彩、キャンバス、100 × 80 cm。トマ=アンリ美術館。

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『横たわる裸婦』1844-45年。油彩、キャンバス、33 × 41 cm。オルセー美術館。

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『樹から降ろされるエディプス』1847年。油彩、キャンバス、135.9 × 77.5 cm。カナダ国立美術館。1847年サロン入選。

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『箕をふるう人』1847-48頃。油彩、キャンバス、100.5 × 71 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。1848年サロン出品。

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『刈入れ人たちの休息』1848年。油彩、キャンバス、89 × 116 cm。オルセー美術館。政府注文。

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『種まく人』1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館。1850-51年サロン入選作か。

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『藁を束ねる人』1850年。油彩、キャンバス、56 × 65 cm。ルーヴル美術館。1850-51年サロン入選。

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『仕事に出かける人』1851-53年。油彩、キャンバス、55.9 × 45.7 cm。シンシナティ美術館。

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『刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』1851-53年。油彩、キャンバス、67.3 × 119.7 cm。ボストン美術館。1853年サロン入選。

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『羊の毛を刈る女』1852-53年。油彩、キャンバス、40.7 × 24.8 cm。ボストン美術館。

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『クーザン村』1854-73年。油彩、キャンバス、73.2 × 92.4 cm。ランス美術館。

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『接ぎ木をする農夫』1855年。油彩、キャンバス、81 × 100 cm。ノイエ・ピナコテーク。1855年サロン入選。

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https://www.pinakothek.de/ja (日本語)


『パンを焼く農婦』1853-54年。油彩、キャンバス、55 × 46 cm。クレラー・ミュラー美術館。

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『落穂拾い』1857年。油彩、キャンバス、83.5 × 110 cm。オルセー美術館。1857年サロン入選。

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『晩鐘』1857-59年。油彩、キャンバス、55.5 × 66 cm。オルセー美術館。1867年万博展出展。

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『死と木こり』1858-59年。油彩、キャンバス、77 × 100 cm。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。1859年サロン落選。

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『子どもに食べさせる母(ついばみ)』1860年頃。油彩、キャンバス、74 × 60 cm。リール宮殿美術館。

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『ミルク粥』1861年。油彩、キャンバス、114 × 99 cm。マルセイユ美術館。1861年サロン入選。

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『鍬に寄りかかる男』1860-62年。油彩、キャンバス、81.9 × 100.3 cm。ゲティ・センター。1863年サロン入選。

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『烏のいる冬景色』1862年。油彩、キャンバス、60.3 × 73.6 cm。オーストリア・ギャラリー。1867年サロン入選。

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『水浴する鵞鳥番の少女』1863年頃。油彩、キャンバス、38.5 × 46.5 cm。ウォルターズ美術館。

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『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm。オルセー美術館。1864年サロン入選。

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『仔牛の誕生』1864年。油彩、キャンバス、81.1 × 100 cm。シカゴ美術館。1864年サロン入選。

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『春(ダフニスとクロエ)』1865年。油彩、キャンバス、235.5 × 134.5 cm。国立西洋美術館(東京)。

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『夏(豊穣の女神)』1864-65年。油彩、キャンバス、266 × 135 cm。ボルドー美術館。

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『星の夜』1850-65年。油彩、キャンバス、65.4 × 81.3 cm。イェール大学美術館。

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『グリュシーの村はずれ』1866年。油彩、キャンバス、81.6 × 100.6 cm。ボストン美術館。1866年サロン入選。

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『鵞鳥番の少女』1866-67年。油彩、キャンバス、45.7 × 55.9 cm。東京富士美術館。1867年サロン出品は異作品。

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『水仙とすみれ』1867年頃。パステル、紙、40 × 50 cm。ハンブルク美術館。

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『編み物の手ほどき』1869年。油彩、キャンバス、101.3 × 83.2 cm。セントルイス美術館。1869年サロン入選。

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『牧羊場の羊の群れ』1872年頃。油彩、板、39.5 × 57 cm。オルセー美術館。

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『春』1868-73年。油彩、キャンバス、86 × 111 cm。オルセー美術館。

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『秋、積みわら』1874年頃。油彩、キャンバス、85.1 × 110.2 cm。メトロポリタン美術館。

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『夏、蕎麦の収穫』1868-74年。油彩、キャンバス、85.4 × 111.1 cm。ボストン美術館。

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『松明での鳥の猟』1874年。油彩、キャンバス、73.7 × 92.7 cm。フィラデルフィア美術館。

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『オーヴェルニュにて』1866-69年。油彩、キャンバス、81.5 × 99.9 cm。シカゴ美術館。

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『グレヴィルの断崖』1871年。パステル、紙、43.7 × 54.1 cm。大原美術館。

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Calling Home the Cows, c. 1866, National Gallery of Art

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The Potato Harvest (1855) The Walters Art Museum.

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Portrait of Louis-Alexandre Marolles, 1841, Princeton University Art Museum

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The Abduction of the Sabine Women by Jean-François Millet, c.1844–1847

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Shepherdess Seated on a Rock, 1856

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Shepherd Tending His Flock, early 1860s

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Potato Planters, 1861

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The Coast of Gréville, undated National Museum, Stockholm

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L'Homme à la pipe ou Portrait d'Armand Ono, vers 1843, huile sur toile, 100,8 × 80,8 cm, Cherbourg-en-Cotentin, musée Thomas-Henry.

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A l'abri de l'orage, vers 1846, huile sur toile, 46,4 × 38,1 cm, New York, Metropolitan Museum of Art

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La Baigneuse, vers 1846-1848, huile sur panneau de bois, 18,5 × 24,1 cm, Washington D.C., National Gallery of Art

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Le Rocher du Castel Vendon, 1848, huile sur toile, 28 × 37 cm, Cherbourg-en-Cotentin, musée Thomas-Henry.

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Femme avec un rateau, vers 1856-57, huile sur toile, 39,7 × 34,3 cm, New York, Metropolitan Museum of Art

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La Charité, 1859, huile sur bois, 40 × 45 cm, Cherbourg-en-Cotentin, musée Thomas-Henry.

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La leçon de couture, vers 1860, fusain et pastel, 38 × 31 cm, Crocker Art Museum.

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La Bouillie, 1861, eau-forte, 15 × 12 cm.

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Le Semeur, 1865, Pastel et crayon de bois sur papier, 1865, 47 x 37.5 cm, Clark Art Institute

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L'appel des vaches, vers 1872, huile sur bois, 94,6 × 64,8 cm, New York, Metropolitan Museum of Art

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