19 日露戦争と日露講和条約
本時の授業の問い「民衆はなぜ講和反対・戦争継続を訴えたのか。」
第19回目の授業は日露戦争の開戦とポーツマス条約について扱いました。本時の授業の問いは、「民衆はなぜ講和反対・戦争継続を訴えたのか。」でしたね。
戦争の足音が近づく
日英同盟締結後の日露交渉では、ロシアがいったん満州からの撤兵を約束したものの、期限の1903年になっても撤兵を完了させませんでした。そればかりか、韓国内にも軍事施設を作り始めます。これに対し日本国内では政府に開戦決意を促す主戦論が高まります。
開戦直前の原敬の日記です
開戦とならば国民は無論に一致すべきも、今日の状況にては国民の多数は心に平和を望むもこれを口外する者なく、元老と雖(いえど)も皆然るが如くなれば、少数の論者を除くの外は内心戦争を好まずして、而(しこう)して実際には戦争日々近寄るものの如し。(1904年2月5日)
大国ロシアとの負けるかもしれない戦争をなかなか決意することのできない雰囲気が伝わります。
開戦
ロシアとの戦いは長期戦は日本には難しいため、日本が有利な状況で講和に持ち込む必要がありました。実際にはロシアも血の日曜日事件がおこるなど、戦争を続ける状況ではありませんでした。旅順を攻略し、奉天会戦に勝利し、日本海海戦でバルチック艦隊をほぼ全滅させた日本は、ここでアメリカの仲介のもと講和に持ち込みます。
このことを学んだとき、日清戦争と日露戦争の戦病死者数、戦費を比較しました。多くの犠牲をはらい、国家予算の6年分の戦費を重税や内外債によってまかなった戦争でした。
日露講和会議
日露講和条約、ポーツマス条約はこの戦争の原因であった韓国問題で、日本の指導・監督権をロシアが認めるという成果を得、そのほかに旅順・大連の租借権と長春-旅順間の鉄道権益をロシアから譲り受け、南樺太を手に入れるなどしましたが、賠償金が得られませんでした。
日比谷焼打ち事件
講和会議の内容が日本に伝わると国民の間に不満が広がります。1905年9月の講和反対国民大会は参加した民衆が暴徒化し、政府首脳の邸宅、警察署・交番や、講和を支持した政府系の新聞社、キリスト教会などを襲撃し、放火したりしました。政府は軍隊を動員して鎮圧します。この出来事を日比谷焼打ち事件と言います。
民衆はなぜ講和反対をさけんだのか
授業では「賠償金が得られなかったから」というひと言では済まさずに、賠償金が得られなかったことがその後の国民生活にどのような影響を与えることになるのかを考えてもらいました。
日露戦争が多くの犠牲を払った戦争だったこと
戦費は戦争の名目で引上げられた増税や内外債によってまかなわれたこと
これらのことを考えると、賠償金が得られなかったことは国民生活に直接結びつくことがわかります。
今日はここまで。
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