変わりたい、代われない

何度も書いたかもだけど、わたしは自分があまり好きではない。

だからいつも変わりたいと思ってる。
いまと違う自分になりたいと思っている。

だけど今の自分を否定してしまうと、現実を否定してしまうと、そこから先には行けないような気がする。
スタート地点はあくまで今の自分なのだから、そこから目を逸らしては、なにも始まらない気がするのだ。

いまの自分を受けいれつつ、別の自分を望む。これは矛盾しているかもしれないけれど、私の素直な望みでもある。

ところで話は変わるけれど、この世界は絶えず変化し続けている。時間が存在するからだ。肉体は老化する。それは変化だ。だけど精神は肉体に宿るのだから、肉体の変化に精神が影響を受けないはずはないと思う。

つまり何が言いたいかといえば、自分というのは、望む望まないに関わらず、つねに変わり続けているとも考えられるということだ。

今の自分を受けいれたとしても、時間のあるこの世界では、自分は勝手に変わっていく。それは、変わりたい人にとっては朗報であろう。あえて変化のために何かしなくてもいいのだから。エネルギーを費やす必要はないのだから。がんばらなくていいのだから。

そして自分を変えたいひとが、こんな自分になりたい、という目指すビジョンがあるのなら、こんなに素晴らしいことはない。自ら望む方向に自分を導いていけばいいのだから。推進力は時間という絶対的なものが既に用意されている。必要なのは舵取りをするだけだから、ほとんど労力はいらないはずだ。

わたしは今の自分が好きではない。だから違うものになりたい。でも具体的に明確に、こういう自分になりたいというビジョンはいまのところ持っていない。なんとなく恐れ多くて考えられなかったからだ。自分が素晴らしいものになれるはずもなく、だから望む自分をイメージすることが場違いというか、無駄というか、妄想すぎて痛々しいというか、とにもかくにも脳が受け付けない状態にある。しかしこのままにしておくと、自分が変わっていくにしろ、どうなるのか検討もつかない。ただただ流されていけば、悪くすればより自分が嫌いになる方向にゆくかもしれない。

だったらできるだけ速やかにわたしは望む自分を具体化すべきである。少なくとも望まない方向に流されないために、望む方向くらいはみつけておかないといけない。いまはそれすらわからない。右なのか左なのか。上なのか下なのか。それすらわからない。

じゃあどうすればみつかるのか。いまと真逆の自分を目指せばいいのか。しかしそのためにはいまの自分をもっと明確に詳細に理解しないといけない。なんとなく嫌いでは話にならない。自分のどこがどう嫌なのか。細かく分析する必要がある。しかしそれもまた苦痛であろう。自分で自分にメスを入れて、ザクザクと切り刻むようなものだから。痛くて痛くてたまらない。なんとなくうすらぼんやり嫌いと思ってるほうがどれほど楽なことか。

要するになんとなく嫌いでいるのは割と楽なのだ。でもその分あまり改善は見込めない。変化しても望む方向にいくかはわからない。普通に考えればいまの延長上に流されていく確率が高い。それは望まない方向であるにも関わらず。

さて。あとはただの選択だ。
このままなんとなく嫌いでいるか、望む自分にむかう覚悟を決めるか。

自分を切り刻む痛みに耐えるか。耐えられるのか。

試してみないとわからないから、まずは試してみるのが手っ取り早いかな。
実はそんなに痛くないかもしれないし。
想像以上に苦痛かもしれないし。

さて、どっちかな。