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「人と比べない」というタフでハードな生き方

人と比べるのはやめよう。
比較しない生き方をしよう。

最近こういった啓蒙をよく見かけます。僕も賛成です。人と比べてばかりだと悩んだり落ち込んだりして疲れてしまいますもんね。

ただ、noteやSNSでその啓蒙の元を辿る「比べてもいいことないよ」と書いてある。それだけです。

これを読んで
「へえ、人と比べなければいいんだ。よし、比べるのをやめよう!」
と心を入れ替え、人生が豊かになって万事解決。そんな風になるとはとても思えません。

健康診断でお医者さんに言われる「バランスの良い食生活と適度な運動を心がけましょう」と同じです。

「そんなの知ってるわ!!」と。
僕らが知りたいのは「運動は大事」という結論ではなく「どうしたらその運動を継続できるか」、それを実現するための方法です。

「人と比べないことが大切」という結論ではなく「では、どうしたら人と比べない生き方ができるのか」を知りたいはずです。

そういう発信をしてる人やお医者さんは「その先は自分で考えろ」と思ってるのかもしれません。なので、どうしたら人と比べない生き方ができるのかを考えていきます。


運動と同じで、人と比べるのはよくないことは理解はしているんだと思います。なのについつい比べてしまう。

なので、比べないためにはどうしたらいいか、ではなく、なぜ比べてしまうのかを考えるべきです。これはとてもシンプルで"社会がそうなっているから"です。

学校ではテストや成績で比べられ、社会に出れば営業成績やスキルで比べられる。いくら「比べるのをやめよう」と胸に刻んでも、社会はあなたが社会にとって有用かどうか、他者より価値があるかないかを、常に比べています。そんな世界では急ごしらえの決意はすぐに吹き飛ばされてしまいます。

これはお医者さんの運動の話も同じです。運動不足を自覚していても、平日はデスクワークで8時間座りっぱなし。帰ったら夕飯をとり明日のために寝る。せっかくの休日は遊びに使いたい。なんて人も多いはずです。

そもそも「人と比べない」を実直にやればいい、というわけでもありません。人は集団で生きる動物です。集団を束ねるボスもいれば、争いに負けて群れから追い出される者もいる。集団の中で自分がどの位置にいるのかを比較するのは、集団の中で生き抜くのにとても重要です。

他人と比較することを一切やめてしまったら、社会という群れから孤立し独りで生きる世捨て人になってしまうでしょう。

なので、社会で普通に生きている、また、それを望んでいる我々が意識すべきは「過剰に比較することをやめること」なのです。


では、なぜ過剰に他人と比べてしまうのか。
そのひとつにインターネットとSNSの影響があると考えています。インターネットは文字通り世界を繋げました。

僕の生まれた平成初期には既にインターネットはあったものの、疑問があったらポケットからスマホを取り出して調べる。10秒後には解決といった、現代のような身近さはありませんでした。

小学生の頃、僕はよく友達の家でゲームをしました。その中で一番ゲームのうまい子はみんなから尊敬の眼差しを浴びたものです。当時の僕にとってその子は「このゲームが一番うまい人」でした。

ですが、現代ではプロゲーマーの試合が配信されたり、配信者がゲーム配信をしたり、その子よりも上手い人たちがインターネット上に無数にいます。

今、僕が当時の状況になったら、その子への評価はきっと「(友達の中では)このゲームが一番うまい人」になるはずです。ゲームだけでなく、スポーツでも勉強でもなんでも「〇〇 世界一」と検索すればすぐに画像や動画が出てくるでしょう。

「一番上手い人」は、学校やクラスや友達ではなく、文字通り世界で最も上手い人を指すようになりました。インターネットが比較対象を現実の人間関係から世界へと拡張してしまったのです。

SNSも要因のひとつです。どんな時も知人の生活の様子が流れてくる。それが充実した華々しいものなら、自分の生活と比べざるを得ないでしょう。

SNSをやめよう!という啓蒙も見かけますが、それでやめられた人を僕は知りません。


人と比べることをゼロにするのは現実的ではない。だからせめて、過剰に比べてしまうことをやめればいいのは分かりました。

ここまでは「適度な運動を心がけましょう」と同じ結論の部分です。次はそこに辿り着くための方法の部分。結局、過剰に比べてしまうのをやめるにはどうしたらいいのか。

僕は
「少しの想像力を働かせること」
「屈強な自己の価値基準を持つこと」
この2つだと考えています。

まず、想像力を働かせることについて。そもそも、人と人を比較するという行為を社会が行うのは正しいですが、個人にとってはまったく間違った行為です。

例えば、あなたは健康診断でショックを受け、お医者さんに言われた通りダイエットのためにジムに通い始めたとしましょう。2ヶ月間は続けたものの、仕事が忙しかったり面倒くさかったりして気づいたら行かなくなってしまった。

ついサボってしまった日に家でスマホをいじっていたら、SNSでダイエットに成功した人の投稿を見てしまった。きっと気分が落ち込み、下手をすると少しの自己嫌悪に陥るでしょう。

でも、考えてもみてください。その時自分はいったい何と比べて、何に対して落ち込んでいるのでしょうか。自分は運動を始めてまだ数ヶ月、反対に、SNSで見たその人は数年かけてやっと手に入れた身体かも知れません。その間に何回も挫折があったかも知れないし、もしかしたら社会的な活動をすべて犠牲にしてまで肉体改造しているのかもしれない。無数にある人生の出来事のひとつだけを比べることに意味があるとは思えません。

社会はテストの結果や営業成績で人を比べますが、それはそこに至るまでの過程や個人の事情を度外視した、とても一面的なものです。社会が一人ひとりの私生活まで評価することはできませんから、そういう判断をするのは間違っていないと思います。最近は働き方改革やリモートワークを推進する動きがありますが、一方で過剰なノルマによる過労死やうつ病のニュースも後を絶ちません。

そんな社会で生きる僕らには、結果だけで物事を判断する癖が染み付いてしまっています。
ですが、人間の生活というのはさまざまな事情が入り混じった複合的なものです。

先ほどの運動の話で、例えばあなたは30代、ちょうど子供が生まれたばかりで仕事も忙しい時期だとしましょう。SNSでダイエットを成功させた人が、20代で独り身、ダイエットのため仕事を辞めてまでジムに通っていたら、あなたはどう思いますか?

きっと羨ましいとも思わないし、それを見て落ち込んだりもしないでしょう。むしろ「仕事も子育てもしながら運動始めた自分って偉いんじゃないか?」と、まったく逆のことを感じるかもしれません。

人生の無数の出来事のひとつだけを比べてしまうからよくないのです。

仕事でもそうです。あなたは休日に仲間とキャンプやドライブを楽しんでおり、あなたより成果を出している同僚は土日に出かけることもなく家でこっそり仕事しているのを知ったらどう思うでしょう。

きっと真似したいとは思わないでしょう。

これが
「少しの想像力を働かせること」
です。

つい人と比べて落ち込みそうになった時は、少しの想像力を働かせてみたら、負の感情にブレーキをかけられるはずです。


想像力を働かせることについて書きました。
次は屈強な自己の価値基準を持つことについて。これはシンプルで、あらゆる場面で「ここまでやれたらOKだ」と自分なりの基準を設けることです。

先ほどの仕事の話のように、社会は結果で人を比べ、評価します。土日にプライベートを充実させている人より、土日も仕事をしている人の方が良い成績を残すのは当たり前です。

もしそれが同僚や歳の近い人であれば、社内ではあなたより同僚の方が優秀だと言われているかもしれません。それは快いものではないでしょう。ですが、同僚の真似をするようなことは決してしないでほしいです。

それであなたの家庭や身体が壊れても、社会や会社はなんの責任も取ってくれません。

むしろ、プライベートをすべて犠牲にして仕事に捧げている人が不幸な人生を送っていたとしても、結果を出している限り、会社は褒め続けるでしょう。(そこに気を遣ってくれる同僚や上司が近くにいるのなら、それはとても素敵な職場だ)

「同僚はこんなに成果を出してるのに、それに比べてお前は」と言われるかもしれません。でも、決して自己の価値基準がブレてはいけません。屈強な価値基準でなければいけない。「俺はここまで頑張るから、それ以上は知らん」という線引きと、周囲の評価に動じない屈強さが必要です。

これが
「屈強な自己の価値基準を持つこと」です。


「少しの想像力を働かせること」
「屈強な自己の価値基準を持つこと」

この2つが僕が考える「人と比べない生き方」への解決策です。

とはいえ、実践するのは簡単ではありません。人と比べて落ち込みそうになった時は、想像力を働かせてグッと持ち直す、他人に比べられた時は、自分の価値基準にしがみついて倒れないようにする。

でもきっとこれは、タフでハードな生き方であると思います。この考えが、少しでも誰かの今を、生き方を豊かにできれば幸いです。

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