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10年前を思い出して書いてみる

東日本震災から10年ってことらしく、メディアは震災を振り返るものが目についた一日。10年前あの時私は何をしてたっけと思い出しながら、一日遅いけど、あの時のことをとりとめもなく書いてみることにする。あ、10年前だから私36歳ね。今考えると36も若いなー(遠い目)

小さな代理店で社長と2人、広告営業する日々。

当時の仕事は、福岡市の観光案内所に置いてある飲食店情報付きの観光案内MAPの制作と営業。MAPの周りに飲食店の広告載せて制作費をまかなうものだったんだけど、一応、市の発行物ということですべて年間契約で年1回広告営業をし、2ヶ月に1回広告掲載の打ち合わせを各店舗とやるような仕事だった気がする。(うろ覚え)

たぶん、その前に勤めていたフリーペーパーが、社長が給料払わなくなってもめて辞めた後に拾ってもらった代理店だった気がする。もともと社長と知り合いで。私、そういうの多いかもなぁ。よい転職の仕方かどうかは今となってはよくわからないが。

覚えているのは、ちょうど年間契約の更新の時期だったのでマリンワールドに社長と一緒に車で営業に行っていた時だったと思う。

ハウステンボスと水族館はデートでしか行かない

という謎のオレルールを設定していた為、マリンワールドに足を踏み入れたことがなかった私は、“これは仕事だからカウントしないんです”と聞かれもしないのに社長に言い訳し、でも(仕事だけど)初めての水族館にちょっとはしゃいでいた。

営業中にきていた地震速報

水族館の担当の人は、けっこう広告出稿に前向きだった気がする。社長に「これ返事楽しみですねー」とか話しながら駐車場に向かう間、スマホみたら、営業してる間に地震速報きてて。なんか震度7とか出てるけど嘘でしょって話してて。車に戻って車のテレビ社長がつけてくれて、ニュース観たら、今から津波がくるって言っていた。

水族館の駐車場で、車の中の小さなテレビで街が津波にのまれるのをずっと2人で観てて、なんか言葉が出なくて、東京もお台場とか火が出てたりして、そのうち東京にいる弟のことを思い出して、ずっと電話したけど電話つながらず。

やっと社長が車出して事務所に戻るまで、電話はつながらなくて。1個下のうちの弟は大学生の時に阪神大震災にもあっていて、その時は早朝に自宅の電話に電話かかってきて、ねぼけて出たら「姉ちゃん俺無事やけん。」って言われて“は?なんのこと?”って聞いたら「テレビつけてみろ!」って言われて高速道路とか倒れてるのみて“なんこれ!は?どういうこと??”ってパニクってたら「とにかく俺は無事やけん。」って電話切れた。その後は全然つながらなかった。

その時のことを思い出して、弟から電話あるかもと思ったけど電話ないし、かけてもつながらないし、不必要な電話がよくないとかっていう情報もあったりでどうしようとか思って、その頃あんまり使われなくなってたTwitterで“地震、うちの弟大丈夫なんだろうか”ってつぶやいたら、速攻で弟から「無事です」ってRTきて私はTwitterで弟の生存確認をしたのでした。

高校生がNHKの放送をTwitterでライブ配信はじめたのも、サーバー室でサーバーの下敷きになって大量出血してるっていうデマツイートも。動物園からライオン逃げたっていうデマツイートも、政府やNHKがどんどんTwitterで情報拡散するのもリアルタイムで見てた。

Twitter下火だったのに、震災で一気に盛り返した感あるよね。

放射能に乾燥昆布がいいとかいうデマも信じて東京の弟と、血がつながってないけど弟分の中村くんに昆布送った。まだ水が箱買いできたギリの時に、事務所から2箱スーパーに2往復して買って、会社にきてくれる配送業者さんに東京に水送りたいっていったら、一番安いのにしていいって会社が言ってるからって破格で送ってもらった。弟と中村くん、結局赤ちゃんがいる家庭に私が送った水あげたって言ってた。

ガリヤっていうフリーペーパーで私の一番の理解者だった神埼さんっていう年下だけど私の上司だった人が当時東京にいて、情報が全然なくて“山内どうしていいかわからん”って連絡きて、めちゃくちゃ神埼さんの為にRTしまくって、これ見て、あれしてってずーっと連絡してた。Twitterしか連絡手段なかったから一日中Twitter使ってた気がする。

九州にいれば震災の影響はないと思っていた

大変なことになったと思ったけど、どこかで他人事だった。九州は地震関係なかったし、水も乾電池もトイレットペーパーもスーパーにまだあった。東京や東北に送る為に、そのうちどこのスーパーからもなくなったけど。

そしたらさ、会社がなくなった。

観光案内所に置いてある広告付き観光MAPの年間契約は、震災の影響ですべて自粛になった。自粛って聞こえはいいけどすべて落ちたってことで、広告収入ゼロってことである。私の給料出るはずがない。ことごとくイベントは中止になって他の広告も出なくなった。

やばいなと思った。どこか他人事だったはずの震災がいきなり目の前にせまってきた気がした。命の危険にさられたわけではないからこういう書き方は誰かを傷つけたり、不快な思いをさせたりするのかもしれない。ごめんなさい。でも正直、本当にいきなりきた。急に、でもじわじわと首しめられてんのがわかった感じ。

マルタイに送った、便箋3枚書き綴った営業手紙

とにかく広告は出なかった。どこも自粛だった。当時九州新幹線開業ですでにいろいろ出てた冊子に載っていた広告主にかたっぱしから営業電話かけた。マルタイの広告があって、電話かけたけどもちろん担当者さんにはつないでもらえないし、電話口で断られるだけだった。

あの時なんでそこまでしたのかわからないけど、マルタイのラーメンが好きっていう単純な理由で勝手に火がついて、ことごとく広告出稿を断られているフラストレーションもあったのか、“何故マルタイに広告を出して欲しいのか”“震災で広告自粛が続いているけど、マルタイさんから自粛を解禁して欲しい”とか本当に勝手なことをいろいろ書いた。便箋3枚ぐらいになった記憶あるんだけど思い出補正かかってるかもしれん。

手紙出して、届いたころにもう一度電話かけてみた。そしたら窓口の人が「お待ちください」って部長さんにつないでくれた。部長さんが「手紙届いたよ。一度訪ねてきなさい。」って言ってくださって、びっくりして“ありがとうございます!!”って泣きそうになりながら電話切ったけど、結局その後その仕事なくなったのでマルタイさんには行けなかった。

失業、そして転職活動

いろいろあったけど、結局私は辞めることになり、その後会社もなくなって。私は転職活動することに。ハローワークに行ったら、自分のことは置いといて言うけど“だから就職できないんだよ”とツッコミたくなる、彼女同伴で面談受けているヤンキー彼氏とかいて、ほんとにハローワークって負のオーラしかなくて、就職活動はしないといけなかったけど本当に行くのが嫌だった。

私の経歴ってラジオ業界とフリーペーパー業界がメインだから、つぶしきかなくてハローワークのおじちゃんも“ライターとかはなかなかないもんねぇ・・・”と申し訳なさそうで、どれもやりたいと思えるような仕事じゃなくて。

仕事って選ばなければあるんだけどね。でも私なりにけっこう範囲を広げて探したし応募もした。ことごとく書類審査で落とされて、面接にも行かないのでどんどん自信をなくしていった。あの当時の36歳独身女性って需要がなかったんだと思う。たぶん。その後一瞬、40歳の時に一度だけ転職活動再開したことあるけど、なんだったんだあの時の需要のなさ!!って思うぐらい40の独身女は全部最終面接まで行って、断ったぐらいやった。マネージャー候補の独身女って、出張もいけるから重宝されるらしいよ。(今はどうかしらんけど)

失業中に知った、“みんなで食べる鍋”の意味

話を戻すけど、仕事が決まらなかった期間は結果的にたった3ヶ月。でもその間、書類審査に落ち続けていた間、世の中から“おまえはもう必要ない”と言われているようで、どんどん落ち込んで行った。まじで死にたいと思った。

失業中だからお金もないけど、人と話したくて西新の陽平くんの店に行っていた。あの店なかったら私壊れてたかもと思うぐらい大事な店だった。今は行ってない、それは私が決めたことだけど。あの時は本当に助けてもらった。だから本当に大事な店だった。

そしたらさ、陽平くんが“山内さん、みんなで鍋するからうちきませんか”って家に呼んでくれた。行ったら常連のみんながいて、陽平くんが「僕の好きなサマーウォーズっていう映画で、みんなでご飯食べるシーンがあって。その時ばあちゃんが、何かあったときはみんなでご飯を食べることが大事だっていうシーンがあるんです。だからみんなでご飯食べましょう(たぶんこんな話だった気がする・・・)」って。

みんなに励まされて泣きながら食べた鍋は、もうどんな味だったか覚えてないけど、あんなに美味い鍋は食べたことないってぐらい美味かった。もう二度と食べれないと思う。

フリーペーパー業界に戻ることに

それで、お世話になったフリーペーパーへの義理があるから「オフィスマガジン」には転職しないって決めていたルールを自分で破ることにした。だから失業期間は3ヶ月で終わったんだと思う。あの鍋なかったらまだ長引いていたかもしれん。

本気で自分が何をやりたいのか改めて考えようと思った時に、やっぱり私がもう一度やりたいと思った仕事はフリーペーパーの仕事で、そして絶対にマルタイに営業にいくと決めていたし、今までのクライアントにもう一度営業に行くかもって考えたら、当時一番分厚くて、一番効果が出そうなフリーペーパーに行きたいと思って、無理やり紹介してもらって入ったのが現ナッセ(めさーじゅ)だった。(ホットペッパー以外ね。)

なんとなくまとめ(まとまってんのかコレ)

なんか、つらつら書いていくと私本当に大事だった場所をなくしてることに気がついた・・・・。それは私の判断だし後悔はしてないけど、大事な場所を手放すクセはそろそろどうにかしないといけないとも思う。こうやって思い返すと。

仕事なくなって自分自身の生活を守ることに必死で、みんなが東北にボランティアに行ってる時も私は仕事探ししてたし、10年前のあの頃を思い出しても、震災のことはほぼ関係ない話になってしまっている。亡くなった人、なくしたモノ、私には想像できないことだし、仕事なくなったぐらい、それに比べたら比較にもならないことだと思う。でもあの時は本当に必死だったし、結果的にものすごく私の転機になったできごとになってしまった。

いやもうそれからもとてもここでは書けないぐらい波乱万丈ですけど、今はフリーランスでなんとか生きていることが奇跡だと思う。こんなこと思い返すきっかけなければつらつら書いたりしなかったと思うけど、変な意味でなく私はいつ死んでもおかしくないし、死んでもいいと思っているので、こんな風に残していくのって大事なのかなとつづっときます。

本当にライターかと思うほどの吐き出し文章で申し訳ないけど、これで10年前のあの時の話はおしまい!

もう行けないけど、あの時一緒に鍋食べた人たちみんな大好きだったなー。










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