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みんな同じところを辿っていく

朝。みんながみんなの温度で温めた毛布の中が気持ち良くて布団から出たくない。
冷える体質だから冬は体に合ってないけれど、外に出た時のツンとした空気は美しいなと思う。
絹の腹巻きの守ってくれてる感じ、朝踏む霜柱のザクザクとした感触。
朝から昼にかけて緩やかに明るくあたたかくなっていくのも、冬の醍醐味と思う。

先日、叔母の葬儀が終わった。
倒れてから葬儀まで長かったこともあり、先月はずっと、死について考えていた。
フワフワしたような、フラフラしたような世界にいた。
徐々にでも足をつけにいかないといけない。
感受性が豊か、といえば言い方はいいけれど、子供の時からとにかく怖がり、特に死についての恐怖がある。
誰か死んだ、とかそんなトラウマはなく、そういういことがある前から、ずっと。
パパとママが寝てからも眠れないと、その怖さはどんどん私を襲ってきて、
天井を見つめながら「私はどうなってもいいから、パパとママは骨になりませんように。」とひたすら呟いていた。怖い子供・・・

今、二人の子供と一緒に寝る直前までおしゃべりして、そして二人の寝息が聞こえてから眠ることが、とても幸せに思う。
二人といられて、出会えて、はもちろんのことだけれど、私みたいに怖がりにならなくて、すっと寝るということが嬉しい。

二人には何度も説明したけれどやっぱりお葬式の悲しさや寂しさというか本質はまだ理解してなくて、そのこともよかったと思った。
綺麗に収骨してくださる人の一番そばで「次はなんの骨〜?」と聞く子供たちがいてくれて良かった、大人たちはきっとみんなそう思っていたと思う。
いざ涙が出てしまうときにも子供がいると、空気がふっと柔らかくなって救われる。

そんな風にわからないときに私もいなくなりたい、とふと思ったりもした。

テレビで流れてた歌で
「死に方は選べないから、生き方を選べばいい」
と歌っていた。

自分だって誰だっていつ死ぬのかわからないのだから、一秒でも長く、一個
でも多く、幸せを噛み締めるしかない。

私は怖がりだから何かあるとすぐ病院に行くけれど、叔母はギリギリまで病院に行かなかった。
病院嫌い、といえば一言で済むけれど、私は半月かけて考えて、それはそれでとてもかっこいいと思った。
蝋燭のように緩やかに死にいくのか
ジェンガを積み上げて、一気に崩れるのか
生きるということは、みんな同じなのに。
私は蝋燭の方だな、損な性格だけれど。

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お習字の先生から、足が悪く歩行困難で、お習字お休みですと連絡が来た。
(なのでななこさん、書が遅れそうです、すみません。)
私の大切な人たちも高齢化している。
同じ年代の子達と遊ぶことより、大人と遊ぶのが好きだった。
パパの友達とおしゃべりしたり、花札したり。
あの子が可愛い、あの子が気に入らないという話しより、天気のことや季節のことを聞いている方が面白かった。
お習字もだからハマったのかもしれない。
先生や生徒のおばさんたちとおしゃべりすることやお茶菓子を食べること。
字が綺麗だね、とかお習字続いてえらいね、と周りに褒めてもらうたび、恥ずかしくて
「お茶菓子を食べに行っています。」
と言っていたのを今も覚えている。子供ながらに、曖昧な、本当のような嘘のこと。
私が大切な人たちを守ったり、恩返しするために、やっぱりいつか、というかできるだけ早く、自分でたくさん稼ぎたい、と思いながらまた一日が過ぎる。


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