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雷というのは不思議な鳴り方をするときが確かにあるというのは知っている。


雷はあの一度きりで終わってしまった。あめちゃんが押し入れの隙間に隠れる必要もなかった。

雷というのは不思議な鳴り方をするときが確かにあるというのは知っている。

それを感じたのはもうかれこれ15年以上も前になってしまうが、大好きだった祖父が亡くなったときだ。その頃ちょうど舞台作りのためのフィールドワークで、祖父がよく庭のように語った隅田川の界隈の、梅若丸の伝説など調べたりしていた頃だった。祖父はその完成を見ることもなく、夏過ぎ秋の初めに、あっけなく旅立ってしまった。その年の5月には何でもなく会っていた。毎日晩酌し、好きな煙草をやめることもなく、あっという間に逝ってしまった。
最後のお見舞いに行ったときだった。風邪をこじらせ入院し、肺炎になり、そして治療で、急にとても痩せ、別人のようで、信じられなかった。意識も、急に斑になっているようだった。いつもかっこいい東京っ子のおじいちゃんだった。私は病院の治療が悔しかった。徘徊しないように両手首から繋がる布はベッドに固定されているようだった。おじいちゃんは飲み物を飲みたいようだった。甘いものを飲みたいようだった。けれども水以外は、飲んではいけないようだった。たまたまその時はお見舞いは私一人だった。とてもつらくて、会えたのに会えていないような、自分が宙に浮いてしまうような、そんな気がした。
時間もせまり、行くことにした。何度もお別れを言い、また来るね、と言ったけれど、伝わっているか、わからなかった。
病院から外に出ると、空が真っ暗になり、雨が降ろうとしていた。重たい湿気の籠もった夏のにわか雨だ。出てすぐの信号を渡った正面に、古い神社さんがあった。簡素だけれど風格があった。おじいちゃんを助けてほしくて、きっともうダメかもしれないと思う気持ちを払いながら、慣れない柏手を真似事のように打ったその瞬間だった。
まだ信号を渡り終わってもいなかったかもしれない。突然物凄い音を立て大きな雷が光り、落ちた。私の柏手に落ちてきたかのように私には思え、飛び上がるほど驚いた。実際に跳び上がったかもしれない。私を叱ったように思えた。泣きたくなった。いや多分泣いていただろう。自分の気の迷いを、見透かされたように思った。考えたら、おじいちゃんは辰年の男だった。その雷はおじいちゃんだった。
もう逝ってしまうんだろう、たぶんそんなふうに思った。こわくて悲しかったのだけれど、あれは私への挨拶だったのだろう、と、そんなふうにも思えてきた。
すぐに滝のような雨が降り出し、バスに乗り込んだのを覚えている。雷はまだ鳴っていた。けれどバスが駅に着く頃には、もう止み始めていた。


とても言葉で説明しにくい体験だった。
今日これを書かせてくれただつおさんに感謝している。


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