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映画『君の名は。』に感動する方法

日本じゅうに感動の嵐を巻き起こしている映画『君の名は。』を見ました。


映画館を出たわたしは、ジャック・リヴェットの3倍はあったな...と相対性理論による時間のいたずらを全身に感じていました。そしてふと映画を見る前に、このツイートを見て笑っていたことを思い出したのです。

オタクやばいww(※2019/1 元ツイートが消えていたのでスクショを貼りました)

見る前はそう思っていた。

だが見終わった後に分かった。彼は真実を言っていたのだと。誰もが彼を狂人だと思ったが、彼はまったく狂っていなかった。身を挺して警告をしてくれていたのだ。

それなのにわたしはなにも気づかなかった。狂人と思われていた人はまったく狂っておらず、安全圏にいると思っていたこちらが狂っていたのだ...

ということで、『君の名は。』は素晴らしい映画でしたが、わたしは全く理解出来なかった。しかしみんなが感動しているので無理解ぶりを反省し、どうすれば感動できるのかを自分なりに調べたので、自戒を込めてここに記しておきたいと思います。

1.シチュエーション以外は気にしない

この映画において、最も大切なのは「シチュエーション」。

岐阜の田舎に住んでいる美少女の女子高生と、東京に住んでいる男子高生の体が入れ替わる。お互いの存在を知りながら、すれ違ってなかなか会えない二人。だがいつの間にか惹かれ合い..

というあらすじがあったら、実際の映画では「どうして」二人の体が入れ替わり、「どうやって」日常生活を送るのかという根拠が説明されると思いこむ。だがこの映画においてはそもそもあらすじ以上のディテールは存在しない。「シチュエーション」が設定されていれば「そういうことになっている」し、「体が入れ違っちゃうなんてドラマチック!!!」と酔いしれることが出来るので、現実や常識との齟齬があってもまったく気にならない。

この「シチュエーション至上主義」はエロゲとの類似性が 語られている。エロゲは根拠も現実もいらない。作者がそのシチュエーションを作りたいから登場人物がそういう風に動かされていて、見る方もそのルールに乗って楽しむ。登場人物の人となりがわかるエピソードがなくても、「そういうこと」だから感情移入できる。新海監督はインタビューで「顧客の気持ちをシミュレートし続けた」と語っているのだが、観客がシチュエーションと画面のテンションに従って泣いたり笑ったりすれば良いという親切設計が施されているのかもしれない。

 今回の作品においては、脚本の「開発」を徹底的にやりました。脚本会議では、東宝の川村元気プロデューサーやスタッフに脚本を読み込んでもらい、意見を出してもらいました。毎回、初めて映画を見た人の視点で、観客の気持ちがどう流れていくかを徹底的に考え尽くす。チームで顧客の気持ちをシミュレートし続けるという作業だったと思います。

悲しいのは、この親切設計とディテールが両立されていないことだ。映画はそもそもフィクションである。ひねくれた性格の観客は、「台詞などで語られる与えられた情報」ではなく、画面のそこかしこに現れるディテールなどから「この作品ではこういうところまでがリアルということなんだな」ということを判断してその映画の世界に入っていく。だが台詞以外のディテールがどうもブレているので、ひねくれている人はその親切設計にどうしても乗れない。

なんで学校の場所もわからないのに自分のクラスはわかるの?!毎日持ってくるお弁当は父と息子どっちが作ってるの?!なんでもらったコロッケが2つに割れてるの?!男子高生がパンケーキ1600円もするようなカフェに行ってコーヒーとか飲むの?!マックでポテトLサイズとファンタとかじゃないの?!カフェのマスターが親戚とかそういうこともないのにこんなに女しかないカフェに男3人で行くの?!ピクニックみたいな装備で登れる絶景のクレーターがあるならめっちゃ観光地になってるんじゃないの?!男のほうは車に乗せていってもらってたけど、帰りはどうすんの?!凍死するんじゃないの?!あの飛騨についてきた友達はいったいなんの意味があったの?!なんでスマホの中身がいきなり消えるの?!世襲の設定ってなんか意味あったの?!など...しかしそもそもこの世界で果てしなく湧いてくる疑問は全て愚問である。「そういうことになってる」からだ。

『シン・ゴジラ』で、庵野監督が「鎌倉からゴジラを上陸させたい」と言ったとき、樋口監督は「その位置だと水深が何メートルだから、ゴジラが立ったときにこの絵にはなりませんよ」と言ったという。

ここで冒頭のツイートを思い出してほしい。


そうだ、『君の名は。』はこういう世界なのだった。見る側の前提がすごく高い。シチュエーションを設定した時点で、登場人物たちの人となりがわかるようなディテールやエピソードがなくても感情移入できる。そうでないと、根拠なく唐突に人間関係が変わっていくのに追いつくことができなくて悲しい。登場人物たちの内面や人間関係の描写がものすごく浅くて感情移入することができない。わたしも登場人物に感情移入してボロボロ泣きたかった。

だが画面にはやたらと「ローアングルからの引き戸の開閉」の描写がすごく深い意味がありそうに描かれたりする。なにかフロイト的メタファーでもあるのだろうか。乗れない方の人はちいさな齟齬に打ちのめされているので、こうした壮大なメタファーについて考えを巡らせることもできない。それにしてもこの映画における背景は、彗星以外、登場人物と呼応せずまるで書き割りのようだ。


2.そのノリについていく

こちらは新海誠監督による小説『君の名は。』の1ページ。たいへんライトな感じです。これを見ていろいろな理由から「無理」だと思う人は映画のノリが完全にこのまんまなので絶対無理だと思います。

※ラノベ文化に触れたことがなかったわたしはこれを見て「これがラノベというものなのか、なんということだ」と思っていたのですが、ラノベのメインストリームではないそうなので、修正しましたスミマセン

ところで新海監督が「村上春樹みたいにみんなが知っている物語を作りたい」と言及しているので村上春樹が引き合いに出されることがあるみたいなのですが、村上春樹は「シチュエーションを作りたい」と考えて物語を作るのではなく、「描きたいことにシチュエーションがついてくる」作家だと思うのでアプローチは全く逆だと思いました。

3.なんかキモいとか思わない

口噛み酒より「あっ無理」と思ったのが組紐をリボン代わりにしてキュッと結ぶというアイデアで、わざわざ口にくわえて結ぶみたいな結び方もなるほど萌え描写...と唸った。伝統工芸は素晴らしいし最高だと思っていますが、組紐をリボン代わりにしてポニーテールにしてる女子高生というリアリティ!!!そしてそんなに大事な組紐が、ラストシーンで全然使われないのもすごい。夢のなかでシャリンシャリン鳴ってたけど、すれ違ったら音が鳴る、みたいな設定にするとか、なんかあったんじゃいかと思った。だがそんなことを考える時点で心が汚れている。組紐で髪を結ぶのは最高!!

新海監督の素晴らしさは、閉じた世界で比類なくどこまでもほとばしるイマジネーションだと思います。その世界は閉じているのだから、世界観に整合性があろうがなかろうが関係ないし、そのほとばしるイマジネーションを眺めるつもりで映画を見たならば最高に没入して楽しめる。

今回東宝さんが「徹底的な脚本会議」を行ったので新海さんのエキスが薄められていると言われているのですが、アニメ/ラノベ/SFにまったく耐性のない人間が見ると、それでもすさまじい劇薬でした。耐性がないと、組紐でポニーテールなんてことだけでもう拒否反応が出てしまう。大ヒット映画ということで「万人向けかな〜」と思って気軽に触れると、その才能の劇薬ぶりにあてられるかもしれないということを自覚して注意したほうがいいかもしれない。

4.これが日本の最新だと理解する

批評家・映画史研究者の渡邉大輔さんがこう語っておられます。

新海誠というアニメーション作家の独創性、新しさを理解するうえでほんとうに重要なのは、かれがゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能であり、だからこそ、たとえばジブリ(宮崎駿、高畑勲)から押井守、庵野秀明を経て細田守にいたるような、戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシーをじつはほとんど共有していない、いわばアニメ界の「鬼っ子」的存在だという事実なのです。結論からいえば、だからこそ今回の『君の名は。』の「歴史的」大ヒットは、一方で、日本アニメ史における大きな「切断」になりうるのであり、また他方で、(ゼロ年代から新海を観てきた男性観客にとっては)新海個人のキャリアにとっても新たな転換点になったと思うのですね。

『君の名は。』に乗れなかった人は、アニメ史の正統的な文脈やレガシーを求めている人なのかもしれません。

いままではジブリだったのでまだ理解ができましたが、これからはそうはいかない。エロゲ/ラノベ的な映画が市民権を得たという分断を経たいま、映画というものに対する視点を更新しなければいけないようです。

※9/25 ラノベ貼り付け部分を修正しました

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