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ドリーにイラッとしない人間になるために「ファインディング・ドリー」

映画「ファインディング・ドリー」を見た。冒頭で、赤ちゃん魚のドリーが、両親に「初めての人に会ったらこう挨拶しなさい」と教えられた言葉を繰り返していた。

"Hi I am Dory, I suffer from short term memory loss."

こんにちは、わたしはドリー。わたしには短期記憶障害の病気があるの。

ドリーには生まれつき、ものを覚えていられない障害があった。だから両親はそんなドリーが世の中でちゃんと生きていけるように、ハンディキャップを宣言することを教えた。ドリーが足りないところを、誰かに助けてもらえるように。ドリーは赤ちゃんなので、自分が何を言っているかはわかっていない。でも両親がそれを教えてあげたおかげで、ドリーは世界を生きぬくための知恵を身につけたのである。

大きくなったドリーは、相変わらずものを覚える事ができなかった。両親といつの間にかはぐれ、遠いところで暮らしていた。両親を失ったことさえ覚えていなかった。それが突然、自分にも両親がいたことを思い出し、彼らを探そうと思い立つ。ずっと会っていない両親を探すのは大変なことだった。時折フラッシュバックする記憶の断片を頼りに、ひたすら衝動的に行動を続ける。

ドリーはものを覚えていることができないので、基本的にそのとき目に写ったものに反射的に行動するしかない。彼女が患っているのは短期記憶だけではなく、ADHDも兼ねているようである。ADHDは注意力を持続することができない「不注意」、じっとしていることができない「多動性」、何かを思いついたら行動してしまう「衝動性」が押さえられない発達障害。アメリカではポピュラーで、昔は「性格」だと思われていたことが医学的な概念として認められ、治療法が見つけられている。2時間の上映時間で繰り返されるのは、ADHDの特徴そのままに、行き当たりばったりに行動し、その結果窮地に陥る彼女の姿だ。

窮地に陥ったドリーが、毎回毎回行なうのは、目の前を通りかかった人に「助けて!」ということだ。

「助けて!」

「何から?」

「何だっけ?思い出せない。忘れちゃった。」

「なにかわからないなら、助けることはできないわ」

パニックになったドリーは何も判断することができない。

「わたしもわからないの!でも助けて!なにかわからないものから助かるのを助けて!お願い!」

という、絶望的な叫びを繰り返すしかない。

このやり取りが、映画では何十回も繰り返される。本来笑うところなのかもしれない。でもわたしは全然笑えなかった。わたしもドリーと同じで、計画性もなく衝動的に行動しては行き詰まってパニックになり、絶望的な声をあげることがあるからだ。自分で追いやった窮地にはまった結果、そこからどんな声を出したって、どこにも届かないのを、それがどんなに絶望的な気持ちなのかを知っている。だから見ていて本当につらくなった。

普通の映画なら、主人公が成長していく。でもドリーは発達障害があるので、"成長"ということがない。思いつきで周囲を振り回しては穴にはまってパニックに陥る、ずっと同じことを、ぐるぐると繰り返している。何か起こるたびに大声で騒ぐので、「ちょっと黙ってられないの?!」とイライラしてくる。

「これを......?!楽しめというのか...?!ピクサーさんよ....!!!

そうやって画面の外のわたしがドリーにイライラしている一方で、画面のなかでは彼女の家族や友人が、彼女の個性を認め、ものすごく優しく接しているのだった。彼女を責めることもないし、それどころか、「ドリーはすごいよ。行き当たりばったりに行動して、誰もできないことを可能にしちゃうんだから」と賞賛しているのである。全然乗れない。みんな困ってるのでもうちょっとちゃんとして欲しいという思いばかりが募る。

なんでこんなことになるのかと思った。わたしがここに来たのは、おとぎ話のなかで、かわいいお魚がハラハラドキドキの大冒険を繰り広げ、最後はみんなでハッピーエンドになるみたいな楽しい映画を見るためだった。誰も悩みのない、傷つかない世界が、映画だから作られていると思った。それなのに、どうして現実で見る齟齬をつきつけられ、重くつらい気持ちにならなければならないのか。

そう思って映画館を出た。その次の日の昼間、ふと、自分がこんなにイライラするのは、「健常なのが正しくて、障害は悪い、存在しちゃいけないもの」と思い込んでいるからだと気がついた。ドリーは「秩序を乱す」から、社会にとって迷惑な存在だと思ったのである。みんなと同じように振る舞えない存在は邪魔だから直してほしい。わたしはそう思っていたのだ。だからドリーにも自分にもイライラしていた。

でも、秩序を乱すことが、どうしてそんなに悪いことなのだろうか。

もしわたしが、そういうADHD的な性格を、ドリーやその両親、ニモやマーリンやハンクが言うように「きみのすてきな個性」だと思うことが出来たら、自分にも人にも優しく出来るのかもしれない。みんながそう思うようになったら、世界がまったく変わるのかもしれない。それは他者がどのようなかたちにも関わらず、存在しているということをただそのままに認める「愛」だ。

ドリーは何かが起こるたびに、自分が悪くない場合でも、「ごめんなさいごめんなさい」と何度も謝る。「なんだかわからないけどなにかが起こったら自分が悪い。ものを覚えられない障害があるから」と思っている。それが物語の後半、ものを覚えられないドリーが成長を遂げる。両親の行動や、友人たちの助けを経て、ものを覚えることができなくても、わたしにはやりとげることができる、大丈夫なんだと自信を持つことができたのだ。親がこどもにしてやれる最高のことは、自分たちが手助けをしなくても、そうやってこどもが自分の足で立って歩いていけることなのである。

もうドリーは謝らなくてもいい。そうやって世界を変える方法を、監督は映画を通して「簡単じゃん、ただそう思えばいいんだよ」と訴えかけてくる。「目の前にあることだけを見ろ、それに従え、それだけでいいんだ」と繰り返し訴える。今ここにある、この瞬間だけを感じろということ。禅とか、Googleもやっている「マインドフルネス」でいつも言われているあれのことだ。

ありのままの姿を受け入れて、いまのことだけを見る。言われるのは簡単だけど実際にそう思うのは大変なことリストのトップに入るメッセージ。でもまあ、このとても良くできた映画のおかげで、ドリーの不完全さを喜ばしいものとして受け入れることは出来そうな気がする。アンドリュー・スタントン監督は、「ニモを作ったあと、ああ、ドリーは大丈夫かな、幸せに暮らしているかなって心配でこの映画を作った」と言っていた。また次にこの映画を見るときには、すんなりとドリー(と自分)を受け入れられるようになっていれたらいいなと思う。

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ところで、言うまでもないので言ってないのですが映像がすごくてすごくて眼福きわまりなかった。こんなに美しいものを見せてもらえてありがたい。水とCGの相性ってすさまじい。あと、赤ちゃん時代のドリーが死ぬほどすさまじくカワイイくて、世界にあるカワイイをぎゅぎゅっと固めたらこんな感じになると思う。なにより声がすごい。声がすごい!!!5万回ぐらいリピートして聴いていたい。つくりもののこども声ではなく、こどもの声の可愛らしさをレジンに入れて永遠に定着させたような感じ。20秒ぐらいのところで「OK〜」と言ってから、動くのに声が出ているところがカワイすぎて卒倒します。あとTOHOシネマズに行くと絶対予告に出てくる「某アッテナ」の今回の感想は、2005年の「マダガスカル」のほうが動きがいいと思ったのと、ドリーは人間の文字が普通に読めるんだけど、そのほうが断然クールでいかしてるよなという新しい角度からのディスでした。


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