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#8 海部公子という生き方


 硲伊之助は1921~29年、33~35年と戦前、2度にわたりヨーロッパに滞在し、芸術の都パリを中心に当時最先端の絵画表現の潮流を学び、吸収します。中でもアンリ・マティスと運命的に出会い、生涯の師と慕い、交流を深めました。戦後はそのマティス展、さらにはピカソ展、ブラック展、そしてゴッホ展の国内初開催に尽力。ヨーロッパの近代絵画が日本の国民に広く認識される原動力となりました。今回は海部さんの目から見た硲とマティス、さらにはゴッホについて語ります。(トップ画像は硲伊之助作「栗」1940年)

 マティスから最も信頼された日本人

 アンリ・マティス(1869~1954)は一生の間に4回、大きな自選の企画展をやっています。その一つが1952年に日本で行われたマティス展です。それは硲伊之助の強い要請によって実現したと、マティス自身が画集に文章を寄せています(※)。先生が頼まなければ実現していなかった。日本の弟子は何人もいたらしいけど、一番信頼されたみたいです。

(※硲は26歳だった1921年7月、クライスト丸で渡欧。フランス・ニースからマルセイユに向かう汽車の中で偶然、マティスに出会い、以来、生涯の師と仰いで交流を続けた。マティスは画集に寄せた文章の中で「昨年パリのフランス思想会館で開いた展覧会は私にとってこの種の催しとして最後のものになろうと心に決めていた。それにも拘わらず今度の大がかりな展覧会を日本で開くことを承諾したのはー硲君が彼の母国の造形研究者達におよぼすこの展覧会の価値を切実に表明したためなのである。なお、今日まで日本の芸術家諸君が私に与えてくれた地位から考えて同君の願いを容れるのが私の義務であるように思う」と記している)

 マティス展をやったことで、すごかったらしいですよ。東京の博物館を十重二十重に人が取り巻いて、入場している。その写真がフランスの各新聞紙に載ったんですよ。それを見たピカソやブラックなどがうらやましがっちゃって、僕もぜひやりたいと言って。硲先生はピカソともブラックとも親交があったので、やる気があるならお願いしたいと先方に言ったら、もう渡りに船で。全部うまくいっちゃったんです。国内初のピカソ展もブラック展も硲先生がつないだんです。

 読売新聞がやったんだけど、ブラック展はすごい人が入ってもうかっちゃって、大阪に支社を出す原動力になったような話を聞いた事があります。最初は朝日新聞に企画を持ち込んだんだけど、その頃の文化部がとっても脆弱だったのね、通らなかったの。それで読売新聞の文化部にとても熱心な人がいたので、読売新聞でやったそうです。

 少し間を置いて1958年にゴッホ展もやりました。私は見ています。その翌年に先生と共同生活を始めるんです。マティス展もゴッホ展も日本で初めてなんですよね。もちろんピカソやブラックもそうですが。だから日本で海外の画家の展覧会をやる草分けです。それで日本への信頼が高まったんですよね。関わる人がみんなまじめで、あちらの要望をちゃんと受け入れるから。

 マティスは自分の作品をなくすのが絶対嫌なので、いっぺんに同じ飛行機に乗せるのは嫌だとかいろいろ注文があったんだけど、全部ちゃんと受け止めて、分けて梱包しました。その梱包も丁寧にやったようですよ。日本の受け入れ体制の緊密さと丁寧さと正直さに感動したみたいです。それが他の国とはちょっと違うかもしれません。海外からの展覧会の道が開ける様になった気がします。そういう点は日本人というのはね、丁寧で愚直なくらいまじめで、人間的に失っちゃいけないところなのかなと、そういうところを通じても感じました。

 先生が訳した岩波文庫の「ゴッホの手紙」はロングセラーで、年間1000部くらいですがずっとそのペースで半世紀以上売れているというのは珍しいらしいんです。それだけでも読んでくれてる人がいるっていうのはすごいなと思います。ゴッホは日本に来たことがないのに、浮世絵を通じて日本を感じてるんですよ。線とか色のハーモニーとかで、日本人の正直さとか助け合う精神、ここに芸術の目的と真髄があると感じたんだと思う。

ゴッホを通じて日本を学んだ

 私はゴッホを通じて日本を学んだし、自信を持たされましたね。ここで生まれて育ったことの強みを把握したいっていうね。後に海外へ先生と行ったり、海外のものに触れたりしましたが、そうやって比較検討する視座を持っていなかったら、ここに落ち着いていられなかったかもしれません。

 1958年のゴッホ展は先生とも一度行っていますし、全部で三度行っています。一人でじっくり味わって。本当に素晴らしい展覧会でしたね。「夜のカフェテラス」がポスターになっていました。その実物がすごい衝撃だったんです。暗い部屋でスポットが当たっていました。実際の景色の中に入っていくような印象でしたね、実感があって。「ヒバリの飛び立つ麦畑」という絵がありました。草原を渡る風と草の揺れぐあいが描かれていて、ヒバリが飛び立ったところなんです。それは(夫の硲)紘一さんも後にえらい感激して、絵の良さというか色のハーモニーが実感としてつかめるようになった作品だそうです。油絵を通じて九谷焼の色彩を理解する面がすごく多かったんじゃないかな。私は先生からいっぱい聞いていたし、実物を見る機会もあったので理屈抜きに感じていましたけど。

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(硲伊之助作木版画「夜の祭」1928年)

本物を見て感じることが大切

 作品を見る頻度とか、ちゃんとしたレベルのものを見慣れるということはとても大事だと思います。だからこのあたりの人が古九谷についていろんなことを言っていますが、大切なことは本物、傑作を見て、感じるということですよね。だから今の石川県九谷焼美術館を古九谷美術館に改称して、一点ずつ地道に集めていく中で実感されていく世界じゃないかと思います。古九谷をちゃんと収集しているところは世界に一つもないんですから。やっぱりここには積み上げてきたものがあって、伝統が必然的な要素としてあるし、他ではつくれないですよ。ここで作れなかったら古九谷という名前も消えちゃうだろうし、バラバラになっているものもそのうち消えちゃう存在だと思いますね。きちっと集めないと。(続く)

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