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【Vol.2】養うしかない男か、養われるしかない男としか付き合ったことのなかった女:理香

 男と食事に行った時に、女は金をどれくらい払うべきか。もはや、明治時代あたりから議論され尽されているのではないかという話だが、今もよくその類を聞く。

 キャバクラは、男女関係を金で媒介して給料を得る仕事で、ちえりはその仕事に従事している。そのせいか、男女関係及び金銭関係の相談をちえりはよく受けるようだ。先日も、友人の理香が言い出したことに、ちえりは驚いた。

 理香は小柄な体に大きな胸をした愛嬌のある女だ。童顔だが口が大きいせいか、妙な色気があり、どんな場でも臆せず人と話すので酒の席での需要が高い。私鉄沿線沿いの焼肉屋で緑茶ハイを片手に理香は、ちえりに向かってこう語りだした。


A story about her:理香

 理香は最近、長く付き合っていた男と別れ、新しい男と付き合いだした。

 前の男は年上で、家賃から水道光熱費、携帯電話料金、引越し代、外食などの出かけた先での支払いを全部してくれたそうだ。ちなみに、その男の前の男は、金にも女にもだらしがなく、彼女はバイトを4つ掛け持ちしてその男を養っていた。

 その時の理香は、「好きだからそれでいいの」と言っていて、けれど年上の金持ちの男が現れてからは、「やっぱり男は女に楽させてくれなきゃ駄目でしょ」と言うようになった。

 この女は気分次第で言うことがころころ変わる。そう思いながらも、わたしは、まぁ、そんなものだろう、と理香のことを流していた。

 だが、彼女はその年上の金持ちの男と別れ、新しい男と付き合いだした。今の男は年下で、当然、金がない。けれど、それでも、男はいつも理香と出かけた際に支払いを自分でもってくれたそうだ。

「だけど、彼がね、この間、“ごめん、本当は無理して払ってた”って言ってくれたの」

 理香が、緑茶ハイを飲み干して、しみじみと言った。

「わたしね、それが、本当に嬉しかったの」

 金を支払ってくれていた男が実は無理していた、ということが嬉しい。

 わたしにはその言葉の意味が、全く、わからなかった。

 手を上げて店員を呼び、酒の追加を頼みながらしばし考える。

「それってどういうこと?」

 キムチをつまみながら、わたしは理香に話の続きを促した。

「わたし、今まで全部自分で払うか、相手が全部払うかしかなかったわけでしょ。それで、相手はわたしが払って当然と思ってるか、自分が払って当然と思ってるかのどっちかだったわけじゃない。でもね、今の彼はわたしのために無理して払ってくれてたわけでしょ。それがすごく嬉しかったの」

 理香は網の上でホルモンが焦げるのも構わずに、そう語った。わたしは、キムチをつまむ手を止め、こう答えた。

「それってさ、普通は高校生の時にお小遣いが月に3000円くらいしかないのにドリンクバー払ってくれた、みたいなことで経験しない?」

 「そうだけど、わたしの人生には、それがなかった。だから、それに気付けて、すごく嬉しかったの」

 理香は、三杯目の緑茶ハイを片手に言った。

「過去の話は湿っぽいからやめるけど」

 理香はそう続けて、網の上で焦げ付いたホルモンをこそげ落として口に入れた。

 理香の話がうまく呑み込めないまま、わたしは、考えを巡らせた。

 今までの理香の男性の女に対するお金の使い方に対する見方は、全額自分が払うか、全額相手が払うかの二択しかなかった、と、理香は言っている。

 その両方ができたということは、理香はお金を支払うのはどちらでも構わない、と思っているということだろう。

 しかし、今、理香は、「無理して払ってくれていたことが嬉しい」と言っている。

 そうか。

 グラスを傾けた時に口の中に入った小さな氷が、喉を滑り落ちていくように思う。  

「当然、お前が払え」「当然、払う」

「当然、自分が払う」「当然、払ってもらう」

 理香は、金銭にまつわる、その感覚が嫌だったのだ、と。

 「やっぱりもう一回、牛タンが食べたい」と言いながらメニューを見る理香を見ながら、わたしは思った。

 『当然』や『当たり前』という言葉は、他者ではなく、自分自身に使うための言葉じゃないのか。

「ありがとう」と言われたら、「これぐらい当然だよ」というように。

「嬉しい」と言われたら、「あなたを喜ばせたいのは、当たり前でしょ」と言うように。

 『当然』や『当たり前』という言葉は、他者に使うと途端に叱責の色を帯びる。

「これぐらい、当然でしょ」

「これぐらい、当たり前だ」

 叱責の言葉は、理香が言った「嬉しい」という感情には全く結びつかないものだ。

  理香は、初めて『当然』ではない『嬉しい』ものを手に入れた。

 それは、お金ではなく、「無理してくれたこと」、

 つまり、彼が、「自分のために頑張ってくれたこと」だったのだ。

 ふと、記憶が蘇った。高校時代、深夜、恋人に会いたくなって電話をした。わたし達は幼くて、もちろん貧乏で、タクシーを呼ぶ金など持っていなかった。

 だから、一時間、夜道を歩いた。

 互いの家の中間地点の見知らぬ町で相手の顔を見つけた瞬間、何もいらない、と思った。

 これ以上、これ以外、何もいらない、と。

 そんな瞬間は、きっと誰しもにあると思う。

 けれど、理香は、そのことを、今、初めて知ったのだ。

「ありがとう、って言ったり言われたりするじゃん? 言ってもらいたいとか、言わなきゃって、私、ずっと思ってたの。でも、今は違う。なんかさ、そういうこと思わせてくれてありがとう、って思うんだよ」

 追加で来た牛タンを焼きながら、理香は、はにかんだ顔で話す。

「ありがとう、と、思わせてくれてありがとう、か」

 わたしは、理香の言葉をキムチを飲み下して繰り返す。

 今、わたしにそのように思える相手がいるだろうか。

 自分に問いかけて、止めた。答えを知るのが、怖かった。

 金をどちらが出すのか、そんなことはどうでもいい。

 あなたがいてくれてありがとうと思わせてもらうこと。

 それは、それこそ値段のつけられない、本当に掛け値のないものだ。

 ありがとうとは『有難い』が語源で、それは『あることが難しい』ということだそうだ。

 金を払う、払わないなど、どうでもよい、ただ相手の存在をありがとう、と思える相手。

 きっと、それは、今、わたしにとってあることがとても難しい、と思った。

 帰り道、夜風が酔いで火照った頬に何だか染みた。あの頃、好きな男と会うために一時間歩けたわたしは、どこに行ったのだろう。

 そう思いながら、タクシーに手を上げた。


かつて、ちえりをやっていた2022年の晶子のつぶやき

※注:こちらは、2012年に出版したわたしの自伝的小説『腹黒い11人の女』の出版前に、ノンフィクション風コラムとしてWebマガジンで連載していたものです(Webマガジンが削除されたのでnoteで再掲載しています)。

 コラム執筆当時のわたしは27歳ですが、小説の主人公が23歳で、本に書ききれなかったエピソードを現在進行形で話している、という体で書かれているコラムなので、現在のわたしは23歳ではありません。

小説『腹黒い11人の女』は、現在もAmazonで購入可能です。

 現在のわたしは42才。15年前のコラムは、今見るとなかなか伝わりにくい部分もあったな、と思い、気になった点はちょこちょこ直しています。

 金を払う、払わないなど、どうでもよい、ただ相手の存在をありがとう、と思える相手。

 きっと、それは、今、わたしにとってあることがとても難しい、と思った。

上記noteより

 自分の書いたコラムに、

「んなことねーよ、だってあんた今、友達と仲良く焼き肉食べて、彼女が幸せって話聞けてるんだからよ。それって会えて嬉しい、ありがとうってことだかんね‼ 難しくしてんのはお前自身じゃー、あほの子……」

 と、2022年の晶子は突っ込んでやりたいのですが、まあ、なんというか、自らの愚かさを振り返るのも、年齢を重ねた醍醐味ですよね。

 しかし、自らアホさを全国展開して販売しているという作家という職業の露出狂ぶりになんかもういろいろと乾杯するしかないです。

 しかも、日本で発売された本って、全部、国会図書館に残るんですよ。

 『しくじり先生 俺みたいになるな!! 』を既に後世に残してしまっている三谷晶子です。

 けれど、これを読んでよかったと言ってくれる人もいるから、人生、何事も無駄じゃないですね。

 ちなみに先日も現在住んでいる奄美大島でたまたまお会いした方が、この二冊目をご購入くださって嬉しかったです。

 男性で、年齢は70才ぐらい。70才の方が、この小説をどう思って下さるのか感想を聞くのが楽しみです。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。