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義経千本桜・四の切の感想(2022/1月@歌舞伎座)

マジで今更ですが、Tumblrに載せていた感想。

2022/01/02
『義経千本桜 川連法眼館の場』

■四代目の狐忠信が帰ってきた!
とてもラッキーなことに、新年の初観劇を歌舞伎座で迎えることができた。しかも、猿之助さんの四の切で。
ずっとこの時を待っていた。歌舞伎を好きになり、猿之助さんにハマったのは2017年の冬。あの大怪我をされた直後だった。初めて猿之助さんを「猿之助さんだ」と意識して生で歌舞伎座で観たのが2018年の初春大歌舞伎。白鸚さん、幸四郎さん、染五郎さんの三代襲名披露の公演で、寺子屋の涎くり与太郎で出ていらした。それから4年の間、スーパー歌舞伎ワンピース、黒塚と、復活を象徴するかのようなマイルストーンを次々打ち立てて、それでも、四の切だけはすぐには観る事ができなかった。もうそろそろ?と思っていた頃に、世界的パンデミックが起きた。今回の公演はその意味でも特別だ。感染対策の制約が緩和され、ついに子狐が観客の頭上を飛んで古巣に帰る。桜吹雪の中白い狐が宙乗りをする姿のイメージは、いつしか、猿之助さん個人の身体的な快復の証を越えて、全観客にとっての「復活」の観念そのものになっていたように思う。

■猿之助さんも、本当は人間ではないんじゃない?
欄干の上をツツツツと走り、欄間を抜け涼しい顔で正座し、新体操の種目かと思う程の驚異的な跳躍力を見せつける。人間そんなことできるの?というケレン味的要素への驚きを、しかし、親狐を慕う子狐のドラマが超えていく。

「さてはそなたは狐じゃな」 と詰められ、さっと姿を消したかと思うと、薄紫の美しい着物から真っ白で毛足の長い狐の衣裳に変わってささささと這い出てくる、その速度。早替わりは猿之助さんの代名詞、先月の”伊達の十役”も早替わりが見どころだったが、あれは「早さを楽しむ」余裕がこちらにあった。ところが狐忠信の早替わりはエンタメ的早替わりとは違う。怪異としての早替わりだ。怪異を目にした人に許される反応は、ただただ驚愕のみである。

静御前に切られかかり「そんなことされる覚えはないですゥ!」と口を尖らせてみたり、本物の忠信さんに不信がかかってしまって申し訳ない…と反省してみたり、鼓の音に耳を傾け”ん-むむ”と首を小さくふったり、義経の前で恐縮して階段の死角に小さく座ったりと、小動物的Kawaiiを炸裂させる猿之助さん。

そして、悪僧たちと舞うあの姿!なんて楽しそうなんだろう、なんて自由で、喜びに溢れているんだろう。あの笑顔、あのウインク!胸が痛い…もっかい観たい…。

ついに宙乗りになり、鼓を胸に抱きはしゃぐ子狐。その姿を舞台上から義経と静御前が寄り添い見守る。そんな二人の姿に、子狐の両親のイメージが重なっていく美しい幕切れ。

■静御前と(狐、あるいは本物の)忠信
義経の忠臣、佐藤四郎兵衛忠信(さとうしろうびょうえただのぶ)。

『義経千本桜』は、「忠なるかな忠、信なるかな信」―忠信を連想させる言葉から始まる。最初に言葉があり、言葉は神と共に…と言うのはまあ余談かもしれないけれど、初演から大当たりで、その後数百年にわたって上演され続けている程の大名作の冒頭の文句なのだから、当時気鋭の作者たちが魂込めて書かなかったわけがない。そうして書かれた言葉に、神や霊が宿らないはずもない。
もしかしたら、狐が化けていない”本物の忠信”という男を理解することが、『義経千本桜』が観客に何を信じさせるために書かれたのか理解する手がかりになるのではと思う。

モノホン忠信の居る時間は非常に短い。あんないい男なのにもったいない。なんか、スピンオフで「忠信の休日」とか、あと「忠信のお勤めルーティン」とか見たい。
源平の合戦を生き延びる程武勇に優れ、鎌倉から追われる立場に変わった義経にもブレずに忠義を尽くす信念の篤さ。そんなトップ・オブ・ザ・武士のような男に、いや、そんな男だからこそなのか、義経は自分の愛妾の護衛を言いつける。実際は狐忠信が代行したとはいえ、「兄貴は戦場で武勲を立てて死んだのに、俺は女のお守りかよ…」 なんて、モノホン忠信が不貞腐れるところを想像すると楽しい。あるいは、「兄さんみたいに人の身代わりになって死ぬのはしんどいし、こうして護衛しながらしずしず歩くのも悪くないよな。」なんて思う可能性もある。

そんなことに思いを馳せていると、自然「兄・継信が上司・義経の身代わりになったため、家族を失った忠信」 と 「両親が人間社会の行事のサクリファイスになったため、家族を失った子狐」の立場に相関関係があるのが見えてくる。このあたりが狐忠信誕生の理由のひとつかなと短絡的に考えてみたりする。

モノホン忠信を演じる猿之助さんの怜悧な眼光の鋭さ、あの眼が素敵。義経たちの会話を聞いている間の訝しがる顔つきも男前で見惚れてしまう。偽物忠信の詮議のためその場を立ち去る忠信が駿河・亀井を交互に睨み堂々と去っていく姿には、「俺は場当たりで適当な嘘は言わないからな」という男の矜持が滲み出る。ごく短い時間でこれだけの魅力、頼むからスピンオフしてくれよ。

そして雀右衛門の静御前。こめかみから頬にかけての血色感メイクがちょっと地雷メイクっぽくてバリ可愛い。
長旅を共にしてきた(と思っている)静御前は、本物の忠信に対してもとても気安くて砕けた感じだ。「途中でどこか行ったかと思ったら、私より先に来てたなんて!真面目な方、まだ世の中が戦場だと思ってるのね」とかなんとか、そういうフィーリングのことをおっしゃる。
忠信が自分には覚えがないですと反論するも、取り合わず「チャラチャラ冗談言っちゃって~」と流す。やっとのことで再会した恋人のどフロントで何でそんな他の男といちゃつけるんだ…?と疑念が僅かながら生じるものの、その短いやり取りの中には、静御前と(狐の)忠信が道中でどんな関係を築いてきたのか、またモノホンの忠信とだったらそこまで仲良しにはならなかったろうなということを二重に思わせる要素が詰まっている。

狐忠信の正体を見破った後、おののきながらも子狐に情をかける様子、最後にはすっかり落ち着きを取り戻して義経を呼び寄せる物腰に、静御前という人の優しさ、情け深さ、知性が表れていた。

人が皆「猿之助の四の切」を絶賛する理由が分かったような気がする。すでにおかわりチケットを購入したので、 次回はもっと予習して、忠信について考えつつ、狐の可愛さを存分に味わいたいと思う。


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2022/01/13
おかわり義経千本桜、感想の追記。

素晴らしかった、四の切。本当に素晴らしかった。見れば見るほど発見があり、それに涙が出る。奮発して一等席のド花横の席を取った。

まず花道から出てくる忠信の姿に釘付けになった。凛々しい背中、大きくて、真っすぐで、堂々たる立ち姿。
多分一生忘れないと思う。鳥屋の暗がりから滲み出るように現れた白塗りの顔。険しさや緊張や懐かしさの混ざって見える眼。重い衣擦れの音。

一年ぶりぐらいの義経との対面に思わず涙を拭う姿に、前回見逃していた忠信の繊細な一面がきちんと表現されているのだな気づく。
義経に黙れ忠信!と怒られたあとの悔しそうな顔。誇り高い男で、そして、ちょっとナイーブでもある。
亀井と駿河に連行されながらも、花道の方をにらみ続ける表情。その静かな、でも激しい怒りを見ていると、「ああ、次の間にももう一人、忠信がさっきまで居たのだ。この男と同じ姿かたちの、怪しい男が」と、それが本当の事のように感じられる。もう一人の男、もう一人の忠信。いつしか、館のセットのそこかしこ、舞台の端っこや大道具の裏側を、小さな生き物が跳ね回っているような気がしてくる。小さくてすばしっこく動く、真っ白な毛の生き物が。

いざ狐忠信が出てくる時のダミー「出があるよ!」が、実際は「出があるよ゛おッッ!」みたいな、思ってたより決死の声だったし、鈴の音も「ちゃりん」じゃなくて心なしか「ジャリィンッッッ!」だった気がする。全力で騙そうとしてくれてありがとう。

初音の鼓の由来を話すところで「雌狐(フンスッ)、雄狐(フンスッ)」みたいな、獣の呼吸が入るの新発見でかわいい。

鼓の音を通して、子狐はせっかく会えた両親に帰りなさいと注意される。でもやっぱり帰りたくなくて「さようなら…」 「静さま…」 「はぁー」「お名残惜しい…はぁーん」とか言いながら全然帰らず、さながらトイザらスでおもちゃを欲する5歳児の駄々こねムーブを見せつける狐。トイザらスの5歳児と同じ動きして涙を誘えるのは日本広しといえど猿之助さんだけだろう。あと「はぁーん」のため息のダルさがやばい。むっちゃ帰りたくないじゃん。幕切れの「はや、おさらばー!」のあっけらかんとした別れと対照的。このあたりも計算されているのかなと思う。

ところで、義経千本桜について、初心者にはありがたいいろんな情報が網羅されているページがある。

「名優の芸談」のコラムに面白いことが書いてあった。

(省略)長袴を穿いてゐるうちは、まだ人間でゐなくてはいけないので、その内に少し狐の匂はせて「切らるる覚え、かっつてなし」と飛退つて「刀たぐつて」といふ所で、此の出した左の手を狐手にしたのを自分できがついて、すぐにひろげて當り前にする。あすこい等は高島屋(※1)がした通りをしてゐるんです。 
五代目尾上菊五郎 
出典:「演芸画報」 1920年(大正9年)11月 
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/exp3/exp_new/pages/meibutai/sanyaku_02.html


※1の高島屋は四代目の市川小團次とのこと。さて、澤瀉屋はどうかな…と思って気になってみていたら、やってました。静御前の前に伸ばした手を、眉毛だけ動かし「おっと」といった感じで(でも眼や口はいかにも平静を装って)すーっと指を反らせた形に直している。そんなん言われないと気づかないよ…。

鼓をもらったあとの会心の笑み。パァっと広がるとっておきの笑顔。鼓に頬を寄せたときのその思い切り切なくて優しい笑顔に胸が切り裂かれたように痛んだ。そんなに親が恋しかったのか、ほんとにその鼓を見て満足か。死んだなんて言葉じゃ済まない、毛を刈られ皮だけになって人間の政の道具にされて、その変わり果てた姿から親の声が聴こえるからって、それでそんな笑顔を見せるなんてあんまりじゃないか。

悪僧たちをたばかり、いたずらっぽい微笑み。ウインクしてむふふ…と笑う前に、一瞬まじめな顔になる瞬間があり、それがより、その後の無邪気な笑顔を引き立てる。

誰かを慕う心がテーマとして根底を流れている一幕だ。両親を慕う子狐、義経を慕う静御前と忠信。そして、自分には既に慕うような親兄弟はいないけれど、自分を慕って匿ってくれる川連法眼夫婦や部下たち、恋人に囲まれた義経。

あの子狐のように生きたい。自分の中から湧き上がる気持ちを動機にして、一つのことに打ち込んで、その為なら何もかもを投げ捨てて。もしもそうやって生きられたら、いずれあの猿之助さんの子狐のように笑えるのだろうか。本懐を遂げた笑顔、大変な日々も振り返っても、心に浮かぶのは後悔や苦労ではなく、いい思い出ばかり。


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