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チェーホフ『退屈な話』_20230814

『退屈な話』は、アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860-1904)が1890年に突然流刑地であったサリハン島に赴く前年に著された短編小説である。

ロシア文学は長編である傾向が強く、その中で短編を多く残した作家らしい。正直ロシア文学はまずその長さに、そして登場人物の名前が覚えられないために挫折してばっかりだったので、なかなか読む気が起きなかった。何回ドストエフスキーの本を買い直しては本棚の奥底に埋もれていったことか。

今回は古代ギリシアで求められた《全体》としての人間、それを引き継ぐルネサンスの万能人、そのような人間としてのあり方を獲得できなかった故に様々な栄誉を手に入れた主人公ニコライ・ステパーノヴィチが晩年苦しむ姿が描かれているということを聞き、ちょうどKindle unlimitedにあったのでサクッと読んでみました。
(主人公の名前は結局最後まで覚えられなかったので、あらすじからコピペ・・・)

全き人

なぜ古代ギリシアで全体としての人間が求められたかということについて、オウィディウス『変身物語』より、アラクネーの話から始まる。

織り物に優れたアラクネーという娘は、機織りを司る女神アテーナーに挑み両者優れたタペストリーを作った。アラクネーが作った織物の出来栄えが良すぎてアテーナーがブチギレてアラクネーをボコボコにしたら、アラクネーは耐え切らなくなり自ら首を吊ってしまった。それを不憫に思ってアテーナーはアラクネーを蜘蛛に変身させて一生機織りしてなさいっていう罰を与えたお話。
これだけ書くとアテーナー本当にやばいやつにしかみえないんだけど、まぁそこは置いといて、警告神話としてのギリシア神話はこの物語から機織りという特定の専門知識を持っていることで驕り高慢となった人間の罪を描いている。

高慢が罪である考えはキリスト教にも傲慢(Pride, superbia)として引き継がれ、7つの大罪に数えられる。ダンテ『新曲』煉獄編では煉獄山の第一冠は高慢者が行くところとなっている。

ヒエロニムス・ボス『七つの大罪と四終』1505-1510頃
傲慢は右斜め下の女性の後ろ姿が描かれているもの

特定の技術が優れていることで自信過剰と自己陶酔に陥り、そしてその技術の奴隷になることは人間らしく生きているとは言えない。古代ギリシアから人間を人間たらしめ、人間が求めるべきものは<善く生きる>ということであり、それこそ全き人間なのである。

要するに流行り廃りのある特定の技術を習得してもそれは一時的なものであり、本質的に自分自身を成長させるものではない。身につけるべきはそういう知識ではなく、自らの内面を成長させる知恵であり、そのためには全範囲にわたり学ぶ姿勢が大切。そしてこれこそ全き人だと私は理解した、と思う。

(ギリシアsophia 英wisdom の訳語) 学問、知識を積み重ねただけのものではなく、人生の真実を悟り、物事の本質を理解する能力、または知識を正しく使用できる実践的な英知。たとえば、プラトンでは理性的霊魂のもつ徳で、魂の気概的部分と情欲的部分を指導する実践的な能力。

日本国語大辞典(知恵)

『退屈な話』

そして本題の『退屈な話』について。こちらは正直文学の素養がなさすぎて、深い理解ができているとは到底思えないけど、上記理解を踏まえた上で気になった部分を引用してみる。

ピョートル・イグナーチエヴィッチというわたしの解剖助手が、書物か標本を前にかがみこんで掛けている。彼は朝から晩まで働いている、非常にたくさん本を読む。読んだものはなんでもよく記憶している――この点では、彼は人間でなくて黄金である。が、それ以外の点では――これは馬車馬である。言いかえれば、学問のある鈍物である。天才からこの男を区別している馬車馬としての特徴は、次のようなものである――彼は眼界が狭い、絶対に専門に限られている。自分の専門以外では彼は小児のごとく無邪気である。

『退な話』kindle 位置: 201

これはまさに全き人になろうとする姿とそうでない姿の対比だろう。あらゆるものに触れようとする心意気は黄金に匹敵する価値があるが、専門ののに限られるその視野の狭さはまるで馬車馬のような目におおいをされて使役させられる存在を表している。

学生の興味の狭さへの嘆きも同様。

現に昨日なども、わたしの同僚の衛生学者は、学生が物理学の知識に乏しくて、気象学をぜんぜん知らないために、講義をするのに二倍ほねがおれるとわたしにこぼしていた。彼らは、新時代の作家でさえあれば、それがあまり感心しない作家であっても、進んでその影響を受けるくせに、シェークスピアとか、マルクス・アウレリウスとか、エピクテトスとか、パスカルとかいうような古典に対しては、ぜんぜん無関心であり、そしてこの大と小とを識別しかねる無能力のうちに、最も多く、彼らの日常生活上の非実現性が現われているのだ。

『退屈な話』kindle 位置:907

そして最終局面。

「おのれ自身を知れ」――これは、すぐれた有益な忠言である。ただ残念なことに、古人は、この忠言をいかに利用すべきか、その方法を示すことに思い至らなかったのだ。(中略)今もわたしは、自分自身を吟味する――われ何を欲するや? (中略)わたしの欲望の中にはもはや何も、特殊なもの非常に重大なもののないことは、わたしにとって明らかである。科学に対するわたしの情熱にも、生きようとするわたしの意欲にも、他人の寝台にこうしてすわっていることにも、自分自身を知ろうとする志向にも、いっさいの思想感情ないし、わたしがすべてのものについて組み立てた観念にも、これらのすべてを一つのまったきものとして結合する共通なものが、何一つないのである。あらゆる感情、あらゆる思想は、わたしの中で個々別々に生活しており、科学、演劇、文学、学生についてのわたしの批判の中や、わたしの想像が描くあらゆる画面の中では、いかに巧妙な分析家でも、共通の観念とか、生ける人間の神とか名づけられるものを、見いだせはしないだろう。そして、もしそれがないとすれば、つまりなんにもないわけになるのである。

『退屈な話』kindle 位置:1,358

《共通の観念》こそ、ギリシア神話からつながる人間が人間たらしめるものであるのかな。これがないために、著名な教授として名を馳せた人でさえ、死の間際になって後悔?なにもないということを認識したのだろう。

そして友人の娘を育てた父として、人間が求めるべきものを知らずにこの先も生き死んでいくであろう娘を嘆くシーンで話が終わる。

わたしは彼女をしみじみと見る。わたしには、自分が彼女より幸福なのが恥ずかしい。同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものの自分に欠けていることを、わたしは生涯の日没、死の間ぎわになってやっと初めて認めたのであるが、このあわれな娘の魂は、これまで自分の隠れ家を知らなかったし、将来もおそらく知らずに終わるであろう、生涯の終わりまで!

『退屈な話』kindle 位置:1,431


人間って難しいね!

おしまい


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