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【森の家①】〜観察から実践へ〜

大学院でジャーナリズムを学んでいた頃、あるクラスメイトが質問をした。

「紛争地を取材中に目の前に瀕死の地元民がいたとして、僕たちは取材を続行すべきなのか。それとも取材を止めて、その人を助けるべきなのか」

質問をしたのは、これからジャーナリストを目指そうという取材未経験の学生だった。ベテランジャーナリストの先生は、苦笑いをしてこう言った。

「それはまた古典的な問いだな」

ジャーナリストの仕事は取材・報道であって人道支援ではない。取材対象にいちいち心を奪われて、自らが問題に巻き込まれていたのでは仕事にならない。とは言え、そう簡単に割り切れるものでもなく、だからジャーナリストは葛藤する。取材対象を前にして、自分は何をしているのだろう、こんなことをしている場合なのか、と。

紛争地のような極端なケースではなかったとしても、取材対象から何らかの影響を受けてしまうというのは、多かれ少なかれ誰しもが経験することなのかもしれない。私はそうしたことへの耐性が元々弱く、影響を受けやすい質であるために、ジャーナリストには向いていない。キャリアが始まる前に「古典的な問い」にぶち当たったクラスメイトはまだマシな方で、私は現場にいながらにして、その問いをずっと引きずったままやってきてしまった。

それでもこれまでは「取材する側」に踏みとどまることができていた。巻き込まれないようにしよう、という意志の働きもあったが、それ以上に、それまでやってきたことをかなぐり捨ててまでやらなければいけないような何か、抗えないほどの影響力を持った対象に出会わなかったからだろう。

例えば2016年に出版した『N女の研究』の取材中には、NPOスタッフとして社会課題に取り組む同世代の女性たちを前にして、自分は何をしているのだろうという漠然とした焦りを覚えたりした。実践している人の話をただ聴いているだけの人。そんな自分への後めたさも相まって、知恵を絞って手を動かし、実際的な変化を起こしていたN女たちを羨ましいと感じた。取材をしたことで、何かをしたいという欲求が刺激されたのは確かだった。

結論から言えば、それでも私はNPOには転職せず、社会課題にも取り組まなかった。ただ取材旅を続け、その先々で出会った人の話をどこまでも聴き続けていただけだった。社会貢献や人道支援に向かう私の興味や情熱は、いずれにせよ一時的、あるいは表面的なものであり、所詮はその程度だったということだろう。

私は世界のあちこちへ、いろんなものを見に行った。自分の関心がどこにあるのかも知らないままに、目についたものを手当たり次第に追いかけた。宗教世界やイデオロギーの違いが残したものに考えさせられたことは多くあったし、ある時は政治家に取材して、このまま人任せにしていたのではダメなんじゃないかと思ったこともあった。人々の暮らしに感心したり、暗い歴史に打ちのめされたり、目についた不条理にひどく腹を立てたこともあった。それでも私は何もしなかった。何かを実践する側に回ろうとは思わなかったのだ。

風向きが変わってきたのは2020年に出版した『もてなしとごちそう』辺りからである。この本は、世界各地でご飯を食べさせてもらった経験を17話分集めただけであり、あらかじめお題があって旅をしたわけでも、テーマに沿って取材して書き下ろしたものでもなかった。どちらかと言うと、旅のこぼれ話的な本であり、当時準備中だった東京五輪の「おもてなし」に掛けて何かを書いてみてはどうかという連載依頼を軽い気持ちで引き受けたことから始まったものだった。

ところが一冊の本にまとめてみると、そこには私が長い間持ち続けてきた興味関心が、濁りなくトレースされていた。

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身の回りの出来事や思いついたこと、読み終えた本の感想などを書いていきます。毎月最低1回、できれば数回更新します。購読期間中はマガジン内のす…

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