見出し画像

関係性の中で生まれる新しい価値を歓迎したい

わたしは、「その人自身に価値がある」という見方をしない。
「障害」がその人にあるもの、と見ずに、関係性の中にあるもの、と見るように。

価値は、関係性の中で生み出される。
人と人との関係性や、人とモノ・コトとの関係性。どんな場においてどんな環境だったら、どんな価値が発揮されるのか。個と環境の相互作用。

どんな(医学的な診断名としての)「障害名」がついていようが、いまいが、価値は関係性の中で生み出される。

私のある部分は、Aさんとの関係性の中で、Aさんのある部分と組み合わさり、価値となる。一方で、Bさんとの関係性においては、価値にはならない。

そして、「だれか」がその「価値」を勝手に規定することはできない。あなたにとってそれは価値がないかもしれないけど、私にとっては、価値がある。

でも、「価値」はまるでぜんぶ「だれか」に決められているかのように錯覚する。
とりわけ、「学校」や「会社」という場では、すでに決められてしまっているかのように思う。

「頑張ることは価値があることだ。」
「休みがちな人には価値がない」
「点数の高い人は価値が高い」
「◯◯力は価値が高い」

そんなの、決めさせてたまるか、と思う。そして、私も勝手に決めたくない。

こういう「価値」の勝手な規定化と、相模原の事件は連続している、といつも思う。

「命に優劣はない」って当たり前にそうなんだけど、でも無意識のうちに価値のあるなしを判断したり、序列化している自分が恐ろしくなる時がある。その先にあるものが怖くなる。

だから、やっぱり多様な人と接してみる機会があるといい。対話の中でこれまで気付かなかった価値に気づいたり、生み出されたりする、そういうのをたくさん経験したい。そして、自分にとっていま価値と感じないことは、関係性によって価値に変わることをいつも認識していたい。

重度の「障害」のあるひとが地域で過ごすことについて、本当の「共生」ってなんだろう、って考えると、いつもこうやって悶々とする。

追記:

ツイッターでいただいているコメントが、より的確な言葉を添えてくださる。嬉しい。
本当の意味で価値は多様であることを認識する。「価値」を優劣や序列から解放したい。教科書的に「みんな同じだけ価値がある」って頭で理解するのではなく、関係性の中で新しい価値が生まれたり、価値がないと思っていたことがあると変わったり、「価値は多様なである」ことが腹落ちできるようにしたい。それこそが本当の意味での「共生」だと思っている。
そして腹落ちは実際の経験の中でしか得られない。意図的に場や機会をつくりたい。
「その人」に価値が付随しているという考え方、だれもに価値があるという考え方は美しいかもしれないけど、そこに執着している限りは「ある」「なし」の議論がかならずついてくる。だから「その人の価値」から、「関係性の価値」へ。
この考え方だと、インクルーシブな社会がつくれる。その人が持っている能力や資質そのものに「価値」の判断軸を持たない。あくまでも関係性の中で生まれたものに価値がある。

※「あたし論」はこちらに移動しました。
これまでのはこちら
※写真はとうきょう。

#ソーシャルインクルージョン


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?