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想像力をかきたてる海賊の城


はじめに

 綺麗な桜の花に櫓や天守、こういった景観は見ていて楽しいですよね。
 桜の名所となっている城跡は数多くあるのですが、海賊の城だった場所もその名所の一つになっています。
 島に築かれた海賊の城は美しい海が広がる眺望も合わさり、人気があるように思いますが、一方、海に面し陸地に築かれた海賊の城は、歴史についてもよく分かっていない部分があり、マイナーな城で話や説明などを聴く機会もないと思います。
 そこで今回は、マイナーな海賊の城の一つである笠岡城の紹介とその魅力について少しお話をしていきたいと思います。

古城山公園の桜と笠岡湾

笠岡城

 笠岡は、岡山県の西の端、備中国のほぼ西端、備後国との国境に近いところに位置する古くからの港町です。
 その笠岡の市街地のほぼ中央部に海に向かって突出した小高い独立丘陵があります。
 標高約70メートル、笠岡港の東に位置する丘陵で弘治年間(1555年~1558年)に村上隆重が宗家村上掃部のために築城し、その子八郎左衛門尉景広が慶長四年(1599年)まで在城したと伝えられています。
 徳川時代に入って城は壊されたため、地元笠岡に住む人々から古城山と呼ばれ海賊の城であったと伝えています。
 明治の末年に未新田(現住吉町)埋立てのため山頂が切り下げられたので、往時をしのばせるような遺構はほとんど残されておらず、わずかに本丸跡と覚しき一段高くなった狭小な曲輪とその膝下に南北に広がる平坦地を確認できる程度です。

笠岡城から南方向、神島、鋼管町に向かっての眺望です。
左側奥の山が神島で左側手前が片島です。干拓により神島も片島も陸続きになっていいます。
牧場や畑、奥に広がっている鋼管町の工場は干拓地であり昔は全部海でした。
笠岡城から南東方向、番町、横島、大島に向かっての眺望です。中央奥の山が大島で手前中央から右の海に面した山が横島です。右側の奥海が続いている部分に神島大橋があり、その橋から右側が神島になります。町が広がっている部分の大半が海になります。

 この丘陵の頂上は現在古城山公園となっています。
 この城跡からの眺望は素晴らしいものがありますが、他の海賊の城跡と比べるとその眺望は少し異色です。瀬戸内海の青、点在する島影といいたいところですが、そのかわりに整然と区画された広大な干拓農地が眼下に広がっているからです。かつて、金浦湾と呼ばれ、カブトガニの生息地として知られていた前面の海域は、昭和41年に着手された国営干拓事業によって農業・工業用地に変貌しています。笠岡城が機能していた時代には城の前面が神島によって守られ、入口が波静かな入江であったことは容易に理解できます。
現在は干拓によって陸続きとなってしまった神島は周辺の片島、横島とともに、自然の防波堤の役割を担っていたと考えられ、その波静かな入江状の笠岡湾の最奥部に位置していたことになります。
 そのように考えると笠岡湾内を出入りするあらゆる船舶を一望のもとにおさめることができたと考えられます。
 神島に沿って入江の外に出るとそこには白石島、北木島、真鍋島などの笠岡諸島が南北に細長く連なり、その南端は、さらに塩飽諸島の佐柳島、高見島に接続しています。これらの島々に見張りの番所や砦を設置すれば備讃瀬戸を航行しようとする船舶のほとんどの船舶を監視することが可能となります。
 笠岡城は、眼下の笠岡湾を視野に入れると同時に、笠岡諸島などの島々を通じて、備讃瀬戸をも厳しく睨んでいたと考えられるのです。
 地理的なことが分かりにくいと思いますので、グーグルマップをリンクしておきます。それを見ながら島々や周囲の環境を確認していただけたらと思います。

笠岡に進出した村上氏

 笠岡城のことについて話をしてきましたが、戦国時代にこの城を拠点としたのが、海賊能島村上氏の一支族である村上隆重とその子景広です。
 その隆重と景広は一体どうのような人物だったのかということを話していこうと思いますが、その話をする前に中世の瀬戸内海で活動した村上水軍のことについて少し話をしておきます。
 村上水軍の勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域でして、その後、大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家に分かれました。
 村上水軍が文献史料で初めて登場するのは南北朝時代になります。
 1349年(南朝元号正平4年、北朝元号貞和5年)のことで、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたことが分かる史料になります。南北朝時代の村上水軍は、因島・弓削島を中心に、芸予諸島近辺の制海権を握っていて、海上に関所を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていました。
 能島村上氏は能島城(能島)、因島村上氏は 長崎城から 余崎城(因島)、その後 青木城(向島)へと移り、来島村上氏は来島城(来島)を本拠として活動しました。
 隆重は能島村上氏の村上隆勝の子で惣領家を支える庶家となります。
 隆重の嫡男が景広で隆重同様、笠岡城を拠点として毛利氏や小早川氏などと協力関係を築きながら戦国末期を生き抜いていきます。
 隆重・景広父子については、近世村上家においても多くの伝承が残されていたと考えられ、萩藩に差し出された「萩藩譜録(村上図書)」には、本家との関係を示す系譜が示されているとともに、それにはかなり詳細な注記がされています。

「萩藩譜録(村上図書)」の村上隆重と村上景広に関する注記

 「萩藩譜録(村上図書)」の隆重に関する注記で最も興味深いのは、その前半に記されている村上武吉と村上義益との家督争いに関与していることです。注記によると隆重は、武吉方に組して「義益及び乱賊」を退治し、武吉を「義雅の嗣」としたといいます。この注記が記している家督争いは、天文十年代における大内氏と尼子氏の対立が能島村上氏にも波及して発生した家督争いで、庶家の武吉を擁立する勢力が、惣領家の義益方を破って武吉の家督継承に成功したことを示しています。
 庶家の武吉を擁立する勢力の中心人物が隆重で、これ以降隆重は能島村上氏の中で発言力を強めていったと考えられます。
 そのことを伝えているのは、1552年(天文21年)と推定される卯月二十日付け陶晴賢書状です。この文書は、大内義隆を弑殺した直後の陶晴賢が村上一族を代表する村上太郎、今岡伯耆守の両名に宛てて発した文書で村上右近大夫隆重(「萩藩譜録(村上図書)」は左近大夫としています)が厳島において京・堺の商人から徴収していた「駄別料」(荷物の量に応じて課す税)について、先代の大内義隆はこれを認めていましたが、当代(大内義長)においては、いわれのないことなので停止する旨を伝えています。この文書によって、かつて駄別料の受用を認めていた相手が村上隆重であったことがわかります。おそらくですが、幼い武吉に代わって家中で有力だった隆重が厳島において「駄別料」の徴収の実務に当たっていたと考えられます。
 「萩藩譜録(村上図書)」の注記はさらにその後、小早川隆景に属して活動し、備中国において8000貫を与えられて「加曽岡城」を居城としたと記しています。
 そして、村上氏の伝書には「備中の陶山民部は村上元吉の縁者であるから、民部の死後領分千貫の地を元吉へ下し置かれたということである」という伝書があります。
 これは笠岡の国人領主陶山氏に民部という者がおり、民部の死後に縁辺の一人である村上元吉が陶山氏の所領千貫を受け継いだことを伝えるものですが、これに関連した小早川隆景発給の文書が「屋代島村上文書」に残っています。

 ここに出てくる村上少輔太郎というのは毛利氏との文書のやり取りの年代を考慮すると村上元吉とすることが妥当で、文中にある「隆重併びに御両人」とあるのは隆重と武吉、元吉父子を指します。
 「萩藩譜録(村上図書)」の注記には備中国において8000貫を与えられたとありますが、この文書を確認する限りでは、与えられた知行地は千貫ということしか確認できません。
 次に村上元吉と陶山氏が縁者であるという村上文書の伝承についても説明しておきます。

 この系図は村上図書家村上系図とは別の系図になりますが、この系図の中に淵山民部少輔と出てくるのが陶山民部に該当する者だと考えられます。系図では陶山民部死去後、その妻が再婚しているので嗣子がなかったことも考えられますし、嗣子があっても幼少であったため、村上隆重が後見として笠岡に入ったということも考えられます。いずれにしろ、この時点で笠岡の主が交代したことだけは事実のようです。
 最後に村上隆重が笠岡に入って来た時期と文書の発給の時期について考えてみたいと思います。
 笠岡城の近くに笠神社がありますが、笠神社という呼称は明治なってからで以前は八幡宮と呼ばれていました。この八幡宮の祢宜、立神権大夫にあてた村上隆重と景広の書状が立神家に伝わっています。
 隆重の書状は年号不明ですが、「八幡宮を造営したのを機に楽頭を申し付けるから職務に精励するように」という意味の文書で景広のものは1570年(永禄十三年)のもので、「伏越荒神の祈念を怠りなく勤めるように」という書状です。
 この書状が出された時の事情は不明ですが、村上氏が陶山氏に代わって笠岡に進出し、現在の古城山に城を築いた時から、城の守り神として八幡宮に保護を加えるようになったものと考えられます。
 また、隆重の生年は不明ですが、死没は「小田物語」で1575年(天正三年)となっています。
 そして、元吉は1600年(慶長五年)9月、48歳で討死しています。逆算すると1553年(天文22年)の生まれです。仮に元吉の元服を15歳とすれば1567年(永禄十年)となります。
 これらのことを総合的に考えてみると小早川隆景が発給した文書の年は永禄十年前後が良いのではないかと思います。
 そして、村上隆重が笠岡に入って来た時期は小早川隆景が発給した文書の年よりも前ということになると思われますが、はっきりとした史料がないのでこれ以上はよくわかりません。

重要拠点だった笠岡城

 笠岡城を拠点とする村上氏には協力関係を築いていたと考えられる勢力があります。
 笠岡諸島には真鍋島という島がありますが、この島を拠点としたのが真鍋氏です。源平の合戦には真鍋五郎祐光という武将が登場しますが、この武将の子孫と考えられる人物が真鍋島を中心とした島々を領有していました。室町中期の享徳の頃には飛島・六島を五郎成縄が北木島・真鍋島を貞友教勝が領有していたと伝えています。北木島・真鍋島・飛島・六島は地理的には東の塩飽諸島と西の因島などの中間に位置しています。塩飽諸島や因島などもすべて海賊衆・警固衆と呼ばれた海衆の根拠地になります。真鍋島の貞友教勝の系譜は城山に城を築いていますが、知行地として北木島・大飛島・小飛島の他に備中の五かも平、讃岐の賀茂吉原があったと伝えています。
 「真鍋島資料」によると真鍋右衛門太夫の娘の一人は笠岡の領主、村上八郎右衛門の妻となっていて、笠岡とのかかわりを持っていました。八郎右衛門は景広のことで村上系図でも笠岡に在城していたと記されています。
笠岡の沖には神島という島(現在は陸続きとなっています)がありますが、ここも村上水軍の拠点でした。村上家文書等によれば讃岐の塩飽諸島を降し、備中神島の海賊稲住氏を配下にして、五百余騎の兵力で伊予の大島に攻め込み、遂に村上水軍の頭領となり、村上師清と名乗ったと伝えられています。
 神島にも村上氏に関係する海賊衆が存在したことは十分に考えられます。
 また、村上武吉の祖父にあたる村上隆勝が16世紀前半に「忠節」の恩賞として細川高国から塩飽島代官職をあたえられたことがことが「屋代島村上文書」で確認できるので、武吉の時代には塩飽諸島の支配権は強化され海賊衆とも協力関係を強めていったことは十分に考えられます。
 このように笠岡周辺の海賊衆の協力関係を考えると笠岡城は村上氏にとってとても重要な拠点だったと言えるのではないでしょうか。

おわりに

 海賊の史料はあまり多くはないので、実像についてはまだ不明な点も多いのですが、海賊たちが港や島の配置を頭に入れ、潮流や風向きを見計らいながら経済活動、戦略、戦術を練っていたのは事実で、実際に海を眺めてみることによってそのことが良くわかります。
 海賊が拠点とした海に面する城は、残念ながら干拓事業などによって、昔の眺望と大きく異なることが往々にしてあります。中世の景観を復元する際には、そのことを十分に考慮しなければならないのですが、現地に行って確認してみるとそれがとても楽しいものです。
 城跡を訪ねてみて曲輪跡、櫓跡、堀の跡などを確認し、城の守りがどうであったのかを想像することがあるかと思いますが、海賊の城は築かれた城の周囲の景観を復元させ、大きな視点での想像ができる楽しさがあるということが特有の醍醐味だと思います。
 ようするに海城も面白いから是非尋ねてみてはいかがでしょうかというおススメになるのですが、少しは興味を持っていただけたでしょうか。
 話が長くなりましたが、最後まで話に付き合って下さった読者の皆様に感謝を申し上げて話を終わりたいと思います。

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