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便所の虫

 築60年以上のアパートである。あまりにも古いから、シャワーのカランが壊れた時、呼びつけた水道工事の業者に「うちには無理です」と一刀両断された。だからカランと壁とに突っ張り棒を挟んで水漏れを抑えている。

 台所の蛍光灯は根もとからもげ落ちてしまって、ケーブルが剥き出しになっている。仕方なしに置いた間接照明は光量が少なくって調理するのに不便だ。

 便座の三分の一は壊れて取れてしまっていて、座るためには斜めを向かなくてはいけない。壁に据えられているはずのトイレットペーパーは背中のタンクの上にぽつりと置かれている。

 けれども生きるのに不便でない。水は欲しい時に出るし、光もガスもそう。

 同様に、一人で生きるのに不便でない。友は飲みたい時に会えるし、食もショッピングもそう。

 けれども女のことを思う。女と私とのあいだに湧きおこる些細な不埒を思う。激しく、時折りに凪ぐこともある情愛の事を思う。

 長らく恋を知らない私には、女のあらゆることが不可解で仕方なく、そのことに神秘を抱き、一人空想する毎日であった。

 或る深い夜、私はいつもの仲間と酔って帰った一人の雨のなか、バス停の屋根にひとり忍んだ女を見た。女は冷たい待合椅子に小首を傾げて座っていた。流行りの事を携帯電話の画面に見つめるというわけでもなく、ただ虚ろに正面を向いていた。

「バスを逃されましたか」

 私は彼女の寂しげな様子へふと声をかけたが、裏にはヨコシマな思いもあったことを拭い去ることはできない。それでも、それ以上に、その女が不憫で仕方のなかった思いが内にあったことは確かであったろう。

「はい。でも、家はすぐそこですから」

 返答する女の表情が一層に切なくあって、私は再び尋ねた。

「傘はありませんか」

「じきに止むでしょうから、どうぞお構いなく」

「僕も家はすぐそこですから、これをどうぞ使ってください」

 格好をつけるほどでもない安物のビニール傘を差し出した。女は手と顔を横に振り、そうして申し訳ないからと口にして断った。安心してくださいと私は笑顔を大きくして、女の座る横へ傘を置いてからすぐさま雨のなかを帰って行った。

 小雨ではあったが、汚い部屋に帰り着く頃には髪と衣類から水がとめどなく滴り落ちていた。ガス給湯器のスイッチを押し、浴室で水圧の低いシャワーを身をかがめて浴びていると、タイルの脇をこそこそと歩く便所虫を見つけた。ここは六階であるが、はて、何処から連れて来たか、何処で産まれたか、その短い幾つもの足を必死に這わせて進む虫をぼんやりと眺めていた。

「こんな場所にお前の求める相手など居やしないのに、どうしてお前は……」

 シャワーのかからないよう、排水溝へ流されぬよう、便所虫の長い途上を私はしばらく見守った。


 

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