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ヨーガの理由

最近、また心の中を文字にしていきたいという想いが湧いてきている。
なので少しずつ書いていきたい。

今日はYouTubeで精神科のお医者様の動画を観ていた。
とても分かりやすい話し方をする方で、そして変な人なんだと思う(褒めてる)
だから勝手にシンパシーを感じている。

先生は現在の活動の節目だそうで、その活動への思いとか幼少期の事とかをかなり本音で語っていらっしゃった。そして僭越ながらとても共感した。

本気の活動というのは、やっぱりそれなりの理由があるんだと思ったし、その理由ってホントの深いところは誰とも共有できない感覚なんだろうなと感じた。

わたしもヨーガの先生業を本気でやっている。
でも わたしがなぜヨーガなんだ?っていうところは、今まで何度も色々なところで話してきたけれども、ホントのところを理解してもらえたことはないと思っている。

これから書くのはヨーガの理由のホントの深いところだ。

わたしは いつの頃からか
なぜ生きなきゃいけないのか が分からなくなっていた。
生きる意味を見出せなくなり、消えようと思ったことも何度もある。
(ここが、その精神科の先生と同じであった)

でも、ヨーガをやること、お伝えすることが役割だと思えるようになった時から、自分が生きる意味、生かされている意味はヨーガであると信じて生きている。そこから人生は大きく楽になった。

その与えられた役割を全うすることがわたしが生きている意味である。
このあたりについては、以前の記事でも書いた気がする。

だから、生きる意味を考えるなんて意味ないよ、無駄だよ、生きるしかないんだよ、という人(結構多い)とはそもそも分かり合えない。これはしょうがない。

わたしは
「ヨーガをお伝えするために生きなきゃいけない」のだ。

たぶん、この感覚はなかなか分からないと思う。


時々、ヨーガクラスの料金が安いとか、なんでそんな欲を捨てるとかいう生活をするのとか、ベジタリアンとか悟りを目指すとかって何が楽しいのとか、聞かれる。まあまあ意味が分からないという顔をされる。

実は、こう言われるのが1番悲しい。
シンプルに傷つく。

わたしは「ヨーガをお伝えするために生きなきゃいけない」わけだから、そのために自分なりに組み立ててやっているけれど、ホントのところはやっぱり理解されないんだよな、と思ってしまう。

自分の生き方がいかに変わっていて、マイノリティであるかを思い知らされる。変人上等!なわたしであるものの、分かり合えないであろう人に一生懸命話したり、議論をふっかけられたりするのはしんどい。なんで?なんで?って聞かれるのもきつい時がある。正直なところ、理解するつもりがないのなら、そっとしておいていただきたい。

「ヨーガをお伝えするために生きなきゃいけない」ということは、わたしはその役割を幸運にもさせていただいているだけで、分かりやすく言うと儲けるためにやっていないわけで、ベジタリアンも離欲もヨーガの伝統を大切にして教えに則っているだけだ。


生きる意味が分からなかったけど
今は生きる意味を見出して
この世から消えるのをやめてなんとかやっている

という感覚を持って生きている感じは“そこ”へ行ったことがない人には分からないと思う。決して誇れるものではないわけだけど。

でも、まぁ、わたしもホントのところを伝えてないし、伝えにくいし、それを言ったところで と思っているから、一般的に見たら理解しにくい価値観なんだろう。

なんてな事を書いている今のわたしは
かなり傷を受けてしまってたということが分かった。
勝手に傷ついてるだけなんだけどね。

そしてこれからも傷つくことが多いんだろうなとも。

でも分かったからよかった。

しかしそんな事よりも
わたしは生きるためにヨーガを続けていくしかないのだ。

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