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【能登半島地震】「自粛警察」から「視察警察」へ。SNSと政治家がたどり着いたディストピアの笑えない景色

 「震度7」「大津波警報」という言葉だけで、この先の惨状は察知できた。仕事柄、現地に入るかもしれない。そんな覚悟もあった。3.11以来の武者震いである。

 結局、正月休みが明けても、地元と東京を通勤する毎日である。必然的に旧Twitter(X)のタイムラインを追ってしまった。これが失敗だった。

 コロナ禍では「自粛警察」があちこちに出没して、SNSの投稿が緊急事態宣言などの社会的要請に相応しいのかどうか、自分たちで勝手にジャッジし、〝ギルティ〟ならみんなで炎上させ、思う存分石を投げ、謝罪の言葉を引き出しては溜飲を下げていた。実に幼い正義感で、お手軽な承認欲求の充足であった。

 能登半島地震でも当初、そういう「不謹慎」「不適切」を餌に旧Twitterで遊ぶ輩がいたが、すぐに「『自粛警察』警察」が優勢となり、ほとんど見かけなくなったように見える。

 ところが、だ。

 ジャーナリストや政治家の被災地入りをいちいちツッコミを入れる潮流が現れた。きっかけは、国会の6野党による党首会談である。

 自民、公明、立憲民主、日本維新の会、共産、国民民主の6党は5日の党首会談で、所属国会議員による能登半島地震の被災地視察について、当面自粛することを申し合わせた。救助活動や支援物資輸送の妨げになるのを避けるため維新などが提起し、岸田文雄首相(自民総裁)は「自分自身も見合わせている」と応じた。

時事通信

 言い出しっぺの提案者は、日本維新の会なのだそうだ。いかにも維新らしいというか、随分と紋切り型の「自粛」を決めたものだ。

 もちろん、被災地の自治体が呼びかけを行っている。そういう自治体の呼びかけには理解し、賛同する。

 しかし、国会議員の視察一般を禁止してしまうことに意味があるとは思えない。人それぞれ被災地の復旧活動やボランティアの経験を持つ人、防災士の資格を持つ人、そもそも被災地を地盤とする現職議員が、自力で被災地に入ることに、何の躊躇が必要だろうか。むしろ、現地から入る生の声が国会審議に生かされるのであれば、積極的に被災地入りすべきである。

 だいたい、災害に慣れている政治家は、発災の翌朝には被災地入りし、さっさと地元に帰って、役所の防災担当と被災地支援の調整をしている。いちいち名前を出すつもりはないが、それがプロの仕事であり、現場主義なのだ。

 ところが、れいわ新選組の山本太郎参院議員が被災地入りしたことで、一斉に炎上している。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

 私は彼をいっさい支持していないが、彼が被災地に入るのは自由だ。そもそも国会の党首会談に参加した6党には、れいわは入っていない。自分がいない場所で決まったルールに束縛される筋合いもなかろう。

 そもそも、彼一人が被災地に入らなかったからといって、渋滞は解消されるのだろうか。山本太郎が大名行列のごとく何十台もの車列で被災地入りいたら、そりゃ、えらいことになる。しかし、そうではなかろう。

 国会議員が、自分で仕事しないことを申し合わせるなど、国権の最高機関による自殺行為だ。

 この申し合わせは、もっと悪い方向に影響している。政治家に限らず、ジャーナリストやボランティア、社会活動家などが被災地に入るのに、いちいちそれが適切な理由なのか否か、ネット民がジャッジし、適切でないとジャッジされれば、みんなで石を叩く。自分たちはこたつでぬくぬくとスマホを触っているだけで、被災地に対して何もできない自分の承認欲求を満たしているのだ。

 そして、その先頭に立って犬笛を吹き、SNSによるジャッジゲームを煽っているのが、維新の政調会長である音喜多駿くんである。

 かくして、コロナ禍で一斉を風靡した「自粛警察」は、「視察警察」と形を変えてSNSを賑やかしている。

 音喜多くんは、被災地のために「視察警察」をやっているわけではない。

 単に山本太郎をはじめとする左翼一般が嫌いなだけだ。

 北陸にはまだ維新の議員が少ない。主要政党が現地に地方議員を抱え、国会議員とのネットワークを持っている。維新はどうやったって、生の被災地支援では他党に勝てない。そういうやっかみが、「国会議員の被災地視察は無駄だ」という偏見に満ちた「経験談」を作り上げ、党首会談での提案につながっている。

 権力を監視しないで、反権力を監視する。これは維新の真骨頂でもある。

 維新の「反権力監視」は、今に始まったことではない。現代表の馬場伸幸氏しかり、前代表の松井一郎氏しかり。権力とはたたかわない。自民党安倍派と親密で、口をひらけば立憲民主党や共産党の悪口ばかり。

 昨年、維新の梅村みずほ氏が入管でのウィシュマさんの死亡事件で、支援団体に原因があるかのように発言し、大きな批判を浴びたのは記憶に新しい  。ここでもやはり、権力を監視せず、支援団体を監視する。自民党とは決して対峙しない。

 音喜多くんがインボイス反対の国会前集会を「うるさい」と叩いたこともあった。これもまたしかり、権力ではなく、反権力を監視する。

 突き詰めると、以下のようなことに行き着く。

 被災地からの情報は、大本営発表でいい。政府系以外の情報はどうでもいい情報ばかりだから捨象しろ。政府(あるいは自治体)のコントロール下にない人間は、被災地に入るな。ボランティアも同じく。マスメディアは余計な不安を煽るな。ジャーナリストは被災地に入るな。「お前ら」の行動はSNSで「俺ら」が監視してるぞ。

 とてもシンプルな評価を下せば、維新のこれらの振る舞いは、一言で言うとこうである。

〝権力の犬〟

 ここに尽きる。

 2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに、TwitterがSNS市場を席巻した。問題点は多々あれど、Twitterは必要な情報を探すツールとして機能していたし、遠くにいる政治家や芸能人などにスマホ一つで気軽にコミットするツールとしては一定の意味を持っていた。

 ところが、この何年か、Twitterの言論空間はどんどん劣化していった。「X」という名称になって、ますますひどくなった。

 Twitterをいくら覗いても、幼い正義感を満たすためのサンドバックや、理屈抜きの感動ポルノに「日本すげー!」の合わせ技、自分が見ている情報だけが正しいと思いたいだけのマスコミたたき、そんなのばっかりだ。「X」というプラットフォーム自体、中傷やデマを発信、拡散することで利益を生み出すシステムになってしまい、たくさんのリポスト、いいねを集めて、承認欲求を満たすか、収益を上げるかというシンプルなものになってしまった。

 旧Twitterのシステムを継承しているが、本質的には全く異なるプラットフォームだと認識しておくべきなのかもしれない。

 そして、若き国会議員がTwitterの行き着いた先で「視察警察」をやっていることに、大いなる絶望感を覚える。

 阪神・淡路大震災(1995年)は、人と人との繋がりの温もりに気づかされた大災害だった。東日本大震災(2011年)は、そこにインターネットとSNSという、距離感を失わせるツールが加わった。

 能登半島地震は、何なのだろうか。

 私は率直に〝日本オワタ〟と感じた。

 このディストピアから、私たちは始めなければならない。

 維新がどうのというレベルを超えて、途方に暮れている。


 

 

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