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【阪神・淡路大震災26年】オーラル・ヒストリーから紐解く1・17~①誰も大地震が起きるとは思っていなかった

 もう何度目だろうか。毎年、阪神・淡路大震災が発生した1月17日前後になると、神戸市を訪れる。もちろん、自費だ。関東にいると、1・17を忘れそうになる。首都圏では口では「首都直下地震」の切迫性が叫ばれるが、実際のところは震災など他人事だ。

 私が業界紙に就職する前、まだプラプラとニートを楽しんでいた頃、阪神・淡路大震災は発生した。1995年1月17日早朝である。朝、大学時代の友人に電話で起こされた。大学は京都の私立大学。卒業してから、私と友人は東京に出ていた。すぐにテレビのスイッチを入れた。高速道路が倒壊していた。レポーターが絶叫している。神戸の街に煙が上がっていた。

 この翌月、私は業界紙の記者になる。入社して初日、上司から突然電話取材して記事を書くよう指示された。東京都内の自治体の被災地支援をまとめろというのだ。取材のイロハも教えないで、なんという会社だと思いつつも、必死に電話をかけまくった。それから、私はことあるごとに1・17にこだわった。記者の原点となったのだ。

 当然のことながら、東京の業界紙で神戸を取材するという許可など下りない。それでも、東京で震災対策を書こうと思えば、阪神・淡路大震災に立ち戻ることが必要だ。私は毎年、自費で震災前後の神戸や淡路島を訪れては、震災関連のイベントや式典に参加してきた。そんな中、神戸を訪れると必ず寄る場所がある。人と防災未来センターの震災資料室だ。

 ここには、2012年から公開されている「阪神・淡路大震災オーラル・ヒストリー」が保存されている。書架に開架されていて、いつでもだれでも読むことができる。

 「阪神・淡路大震災オーラル・ヒストリー」は、阪神・淡路大震災記念協会(現・財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構)が震災から3年後の1998年から始めたものだ。震災の体験者、当事者に震災で何が起こったのかをインタビューし、その口述記録を残すという取り組みだ。元々は30年間非公開という約束で始まったものだが、未曽有の大災害である東日本大震災を契機にインタビュー対象者の許可を得て、公開に至ったという。

 残念なことに、震災の当事者からの貴重な証言にもかかわらず、このオーラル・ヒストリーが読めるのは、人と防災未来センターの震災資料室しかない。他のいかなる図書館や資料室にもないし、もちろんネットにも公開していない。関東に住む私が読みたいときは、現地に赴かなければならない。2014年冬、公開されたオーラル・ヒストリーを読むために現地を訪れた。それを基に、震災25年の連載も執筆した。

 インタビューをシンプルに文字起こししているから、膨大な文字数である。連載に使うために一部をコピーして持ち帰ったが、全てを読み切ることはとうていできず、毎年現地に訪れてはパラパラとめくって、時には新たな発見をしたり、改めて震災の教訓を考え直すこともある。

 阪神・淡路大震災から四半世紀以上が過ぎて、当時の教訓を伝える数多くの書籍や記事があふれているが、年月が過ぎれば過ぎるほど、その時々の社会環境やイデオロギーなどに左右されて、当時の生々しい証言が忘れられていったような気がしている。特にネットの言論空間は「社会党の首相だからたくさん犠牲者が出た」「自衛隊が出動しなかったから死者が増えた」などという短絡的な言説が当たり前のように独り歩きしている。

 今回、ちょうど暇になったことなので(苦笑)、このオーラル・ヒストリーを紐解きながら、改めて阪神・淡路大震災の教訓について考える機会にしたいと思う。

※記事に使用している写真は神戸市のオープンデータ「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」の写真を使用しています。

大きな地震が来ない楽園

 神戸には地震が来ないと本気で思われていた時代があった。今となっては考えられない思い込みだが、誰もがそう信じていたのだ。

 大学時代を京都で過ごした私にとって、神戸はあこがれの街だった。坂の街で、どこからも海が見える。おしゃれな町並み。大学では、住民参加のまちづくりの代表例として、神戸市の取り組みを学んだ。東京や大阪ほど雑多とはしていない。京都ほどの伝統もない。若い自分にとってはちょうど住みやすそうな街だった。

 休日になると、神戸まで足を延ばして散策を楽しんだ。

 そんな神戸が一夜にして廃墟になるとは夢にも思わなかったのだ。

 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)は1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源としたマグニチュード7.3の直下型地震。神戸市などで震度7を記録した。建物の下敷きになるなど6434人が死亡、行方不明3人、負傷者4万人以上という大災害だった。当時の兵庫県や神戸市では、「防災」と言えば台風などの風水害が中心だった。

 2014年11月に交通事故で亡くなった貝原俊民元兵庫県知事(震災当時の兵庫県知事)は、直下型地震に対する認識がなかったと振り返っている。

 直下型というのは、後でそのことについては聞いたんですけど、直下型というか断層地震があるということが学説で定説になってきたというのが、せいぜいここ十数年なんですね。

 地震には2タイプある。プレートとプレートが重なった場所で起きるプレート型地震(海溝型地震)と、活断層が動く直下型地震だ。南海トラフ地震は前者だし、熊本地震は後者である。切迫性が叫ばれる首都直下地震は両者とも含まれていて、複雑だから厄介だ。

 当時、直下型地震で震度7などは自治体として想定していなかったし、知事自身にも認識がなかった。

 だから地震震度7ということを想定したら、そりゃ高いものを想定したら起きたときに対応する能力が高いということはわかっているんですが、じゃあほんとに住民のみなさんがそこまで自分の生活を犠牲にしてまでですね、災害に対して備えるということに決断されるのかどうか、これは別に責任逃れするわけではないですが、そういうことを時の知事とか責任者がいってもですね、なかなかついてきてもらえないという現実的な問題がありましてね。
 もう少し真剣にやる必要があったのではないかということになりますとね、そういう意識を持って断層地震が起きるということについても判断をしていないし、したがってそれに対する備えということもしてない。まあしないにしても少なくとも情報提供としてですね、住民の皆さんに提供して、県としてはここまでしかやりませんけど、これを超える地震についてはありえますよという情報提供をしてたかということになると、残念ながらしてない。それは私としては大きな反省ですね。

 当時兵庫県の防災係長だった野口一行兵庫県知事公室消防課副課長はこう振り返っている。

 まず、少なくとも私が防災係長をやっている間は大丈夫だろうと、いう風な思いはありましたね。歴史的に、それこそ有史以来、神戸にあのクラスの地震が起こったということは、当時は知らなかったというか、神戸市の防災計画にももちろん書いていませんでしたし、われわれの防災計画にもそういう想定はしていなかった。ということですから、在任期間中は大丈夫だろうと。

震災に間に合わなかった地震の備え

 震災後は神戸市の助役(現在の副市長)を務めた山下彰啓神戸市元企画調整局長は、当時の防災計画に地震の観点がなかったことを認めている。

 確かに、全体的には地震がそう切迫した形はなかったと思います、はっきり言って。ただ、ちょうどマスター・プランの改訂作業をしておりましてね。それで、マスター・プランの改訂作業を延々と4年、5年やってきて、新野先生がマスター・プランの委員長だったんですが、実は1月13日に案を市から出しまして。それを1年以上かかってやっておったんかな。それに修正を加えて答申をいただいて、その答申に基づいて修正を加えて最終答申をいただいたのが1月13日ですわ。でそこには、防災、特に地震もだいぶ入れたんですよ。やっぱり活断層もあると、災害対応、地震対応、その水害、山崩れとかいうのが、神戸中心でしたけども、それではあかんと。それで地震対応もやろうということで、だいぶ修正意見、議論をする中でやっぱり必要やということで。それが13日で、あともう、まとめだけの段階に入ったんですよ。それで、ちょうど1月が予算編成ですから、平成7年度の予算編成でそのマスター・プランを改訂案と同時に出そうということにしてましたんですが、表に全部出せないままに地震が来てしまったんですよ。

 この改訂案は表に出ることはなかったが、「暫定案」として行政文書としては残されたという。

 そこには、そこそこね、今出ているような防災計画みたいなものの基本的なところ、もう皆入れてます。ただそれは起こってしまったもんだから、「こんなん作ってまして」とも言われない。むしろ作ってる最中だったもんですから、困っておるんですけどね。

 地震が来なければ、その年の予算案には地域防災計画の地震編を策定することが盛り込まれるはずだった。その矢先の阪神・淡路大震災だったのである。

 当時の神戸市長・笹山幸俊氏は、震災前から専門家の助言で活断層のリスクに気づいていた。

 まあ地震が無いということは、我々としては言い難いですね。

 北海道奥尻島が津波で甚大な被害を受けた北海度南西沖地震は、阪神・淡路大震災の2年前、1993年7月に発生している。

 順番に来てますからな。反太平洋を向かい合わせに順番に来てますんでね。だからそろそろやなあ、ということはわからんでもないですね、勘であろうと…。

 市長にこうした危機感があって、市の防災計画にも反映されようとしていた時期に、不幸にも阪神・淡路大震災があったわけだ。

 仮に神戸市が地域防災計画に地震対応を盛り込んでいたとしても、阪神・淡路大震災で通用したのかどうかは分からない。仮に地震編があったとしても、震度7の烈震に対応できたのかどうか疑わしい。ただ、当時の防災関係者が全く無策だったわけではないことは覚えておいてほしい。

 むしろ、自治体が地震対応を検討したくても、専門家の知見がそこまで追い付かなかったというのが実際のところではなかろうか。

阪神・淡路大震災は地震学敗北の序章

 当時の地震学は、東海地震や南海地震などの海溝型地震の研究が主流で、活断層について詳しい専門家は少なかった。私は名古屋出身なので、地震と言えば東海地震が最初に思いつく。東海地震は日本で唯一、地震発生前に予知ができるという建前の想定だった。

 阪神・淡路大震災を契機に1995年7月に、地震防災対策特別措置法が議員立法によって制定された。同法に基づき、政府の特別の機関として地震調査研究推進本部が総理府(現文部科学省)に設置された。実質的には「地震予知推進本部」の看板の架け替えだ。

 地震調査研究本部は「何年以内に何%」という地震の発生確率を発表しているが、確率の高い地域ではなく、確率の低い地域で大きな地震が起きている。もちろん、政府や自治体が地震予知に莫大な予算を費やした東海地震は、この原稿を書いている今も起きていない。

 それどころか、阪神・淡路大震災以来、全国の各地で人命に影響を及ぼす大きな地震が発生している。

2000年 鳥取県西部地震(M7.3)

2004年 新潟県中越地震(M6.8)

2006年 福岡県西方沖地震(M7.0)

2007年 能登半島地震(M6.9)、新潟県中越沖地震(M6.8)

2008年 岩手・宮城内陸地震(M7.2)

2011年 東日本大震災(M9.0)

 ほとんどが政府や自治体がノーマークの地域だ。鳥取県西部、新潟県中越、福岡県西方沖、岩手・宮城内陸、いずれも未知の活断層が起こした大地震だ。福岡県西方沖地震は、福岡市周辺で有史以来初のM7級の地震だった。

 1993年の北海道南西沖地震以来、日本は確実に地震の活動期に入っている。1995年の阪神・淡路大震災も、2011年の東日本大震災も、そのうちの一つだ。東日本大震災以降も、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震、同年の大阪府北部地震など、ノーマークの地域に地震が起きている。そのたびテレビや新聞は「想定外」と書き立てるのだ。

 そう考えると、26年前と今とでは、政府や自治体の防災対策にあまり変化がないとは思わないだろうか。相変わらず地震学者はどこにどんな地震が何%という予知まがいのことばかり。行政はその被害想定に乗っかって、防災対策をした気になる。ところが、発生する地震はどれもノーマークのものばかり。地震が起きるたびに「想定外」と責任逃れする。

 地震学者や自治体関係者は阪神・淡路大震災のときと、脳内が変わっていないのではないか。

 ここまで読んできた方は、阪神・淡路大震災の当事者の認識の甘さを笑っただろう。だが、我々も認識の甘さは大して変わらないのだ。

「首都直下地震」という地震は存在しない

 例えば、東京では「首都直下地震」が切迫していると言われている。防災の日である9月1日前後の防災訓練では、耳にタコができるほど聞かされてきたことだろう。だが、皆さんは「首都直下地震」がどこで発生するのか聞いたことがあるだろうか。人によっては「東京湾北部」と答える人がいるかもしれないが、多くがよく知らないはずだ。

 以下は、東日本大震災を踏まえた被害想定である。東京都が2012年に従来の被害想定を見直したものだ。

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 四つの被害想定のうちの一つが「東京湾北部地震」である。死者が最大で約9700人というショッキングな数字が出たことから、この地震を思い出す人が多いのかもしれない。

 だが、首都直下地震が「東京湾北部」で起きる保障などどこにもない。いや、むしろ、起きない可能性の方が高いかもしれない。

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 上記の画像は、「南関東におけるM7程度の地震の評価領域と過去に発生した主要な地震」である。地震調査研究推進本部がまとめた「相模トラフ沿いの地震活動の長期評価について」から抜粋している。1923年の関東大震災以降、南関東のどこでM7クラスの地震が起きているのかを示している。震源も深さもバラバラであることにお気づきだろうか。

 「首都直下地震」とは、相模トラフ沿いで発生するM8クラスの大地震の間に起きるM7クラスの地震の総称である。一つひとつの地震がどこで、どの深さで、どんなメカニズムで、どのくらいの繰り返し間隔で起きているのかは分かっていない。いずれもノーマークの地震だ。

 ただ、過去の歴史を振り返れば、M7クラスの地震は確実に発生している。それは間違いない。

 皆さんは、「首都直下地震は30年以内に70%の確率で発生する」と聞いたことがあるだろうか。この確率は、震源も深さもメカニズムも分からない地震が、いつか発生するから覚悟しておけという意味でしかない。これは、一定の間隔で繰り返していることが分かっている南海トラフ沿いの地震とは異なる。

 戦後、首都圏ではM7クラスの地震は発生していない。もう70年以上が過ぎ、間もなく1923年の関東大震災から100年を迎えてしまう。

 私は、「首都直下地震」が来ないとは言っていない。そこは誤解しないでほしい。

 ただ、これは東海地震が来る、来ると言い続けて、膨大な予算を投資して空振りを続けているのと似ているとは思わないだろうか。

 そして、東海地震をひたすら待ち続けた結果、阪神・淡路大震災という未曽有の大災害に見舞われてしまった、あのときの日本と同じではないだろうか。

 ならば、神戸の当事者たちの「想定外」を、私たちは笑えない。

 阪神・淡路大震災から26年、私たちはほとんど前に進めていないのだ。


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