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【阪神・淡路大震災26年】オーラル・ヒストリーから紐解く1・17~④自衛隊「派遣要請」は政治判断ではない

 かつて旧社会党は自衛隊を「違憲」としていた。共産党は今でも「違憲」としている。戦後長きにわたって左翼陣営が自衛隊を「違憲」としてきた歴史が覆ったのが自社さ政権だった村山内閣である。村山富市首相は国会で自衛隊を「合憲」とする見解を述べたのだ。当時、マスメディアは大騒ぎだった。

 ところが、今になってみると、護憲の学識経験者ですら自衛隊を「合憲」と主張するようになった。要するに、自衛隊は「合憲」なのだから日本国憲法は改正しなくていいということだろう。

 こういう不毛な議論は、何千人もの被災者が犠牲になる大規模災害ではなんの役にも立たない。私は私で自衛隊に関する憲法論議には私見を持ってはいるが、そういう議論は今回、とりあえず保留しておきたい。

社民党内閣だから自衛隊の出動は遅れたのか

 「阪神・淡路大震災オーラル・ヒストリー」で村山富市元首相は、自衛隊の災害派遣についてこう語っている。

そりゃ「戦争に行け」と言うのなら僕は反対するけれど、「災害対策に行け」と言うのに、何で反対することがありますか。

 だが、現に兵庫県知事から自衛隊への派遣要請は発災から4時間以上経っている。姫路の部隊が神戸にたどり着いたのは午後だった。遠方の部隊は暗くなってからである。これは前回書いたとおりだ。

 やっぱり社会党の首相だし、「自衛隊反対」の首相だから、自衛隊を使いたくなかったのではないかと言われました。そのことについては石原官房副長官が本を書いてますけど、「そんなことは絶対ない」と。五十嵐さんも社会党だったけれど、なんべんも自衛隊を催促していたので、そんなことは絶対ないですよ。いくらなんでもね。

 「オーラル・ヒストリー」には、副総理や法務大臣、阪神淡路復興委員会特別顧問を歴任した自民党の重鎮・後藤田正晴氏も登場する。震災後の1996年に最初の小選挙区制の衆院選に出馬せず、政界を引退した。インタビューは2003年4月1日に行われていて、2005年9月に91歳で亡くなった。

 後藤田氏はこう語っている。

 それからあの災害のときは、ちょうど村山内閣でしてね。官房長官があのときは五十嵐君だった。そこで「最初の被災者に対する救援とかその当時における対処の方針に関して、何も政府が動けなかった」ということを言われるんですよね。五十嵐君もそれを非常に気にしていました。総理も気にしておられたと思います。ところが本当はね、これが社会党の内閣ではなくて自由民主党内閣のときであればもう少してきぱきできたのか、と言うとそうではありません。同じです、これは。
 だから私は五十嵐君に「そんなこと気にするな。社会党内閣だからどうのこうのなんて問題じゃない。要するにこれだけの深刻な災害でありながら、こういう事態が起きたときには最初の数日間は何をやる、その次は何をやるといった時系列的な事態への対処の方法というものが全然できてないんだ。その結果おかしくなるんであって、政権が社会党だからというのは絶対にない。これは従来の自民党政権の積み重ねの結果だよ。何もないとのんびり構えておったのでそうなったんだ」と僕はこう言って慰めたことがあるんです。

 後藤田氏は、震災で知事からの災害派遣要請を待って動かなかった自衛隊には厳しい評価をしている。

 要するに自衛隊の諸君なんかが、災害のときに、我々にはどういう役割があって、初動の救援部隊として自分たちが一番中心にならなければならないんだ、といった考え方が案外抜けているのではないかと、こういう気がしましたね。全部のシステムがああいう大災害のときに動くという体制がとれていない。やはりこれは社会党内閣のせいではなく、日本のシステムの欠陥が出てきたのではないかな、という気がしました。

 同時に後藤田氏は、阪神地域では〝反自衛隊〟の空気が非常に強く、平時から自衛隊と関係機関との訓練が行われていなかったことも指摘している。後藤田氏は自衛隊に対しては手厳しい評価をしたが、〝反戦〟ではあっても、〝反自衛隊〟ではない。

 では、阪神・淡路大震災で自衛隊への災害派遣要請はどのように行われたのかを振り返ってみよう。

都道府県知事による派遣要請は事務的なもの

 都道府県知事による自衛隊に対する災害派遣要請を政治家の〝政治判断〟のように勘違いしている人は多いかもしれない。首長のイデオロギーによって、積極的に派遣したり、派遣に消極的になるものではないのだ。

 貝原俊民兵庫県知事(当時)はこう説明する。

 これはね、非常に誤解があるんですけどね、知事が自衛隊に派遣要請するのは非常に事務的な話なんですよ。こりゃ先生もご承知のとおり、ああいう制度がなぜあるかっていったら、やっぱり自衛隊のシビリアンコントロールをする必要があると、だから自衛隊が動く時にはですね、やっぱり災害の場合は知事の要請があって動くという建前になってるんですが、災害があった時に自衛隊が動くってのは当たり前の話なんですね。それをシビリアンコントロールのために形式的に知事の要請ってことになってて。しかも実際上、その必要性を認めていて、それに意味を持たせてるのは、地元としてはどういうところにどれくらいの人間を派遣してもらいたいのか、地元の被災状況を詳細に自衛隊に通報すると。自衛隊は自衛隊でその情報と独自に集めた情報でもって、派遣の決定をすると、こういう仕組みになってますね。

 当時、神戸市は防災訓練に自衛隊を参加させていなかったが、兵庫県の防災訓練には自衛隊が参加していた。

 そのときの訓練がですね、自衛隊に関する限りはそういうシステムですから、担当セクションが実際こういう災害が発生しましたと、何時何分自衛隊には派遣要請しましたと、こういうことが本部長のところにくるんですよ。で、本部長はよしというだけなんですよ。
 私は当時責任逃れみたいに思われたらいかんから全然釈明もしませんでしたけれど、自衛隊が派遣を決定して、いざ出動するというときに、知事の方から派遣要請してくださいと、私の方はいま出動しますよとその時点で知事部局の方に自衛隊から相談があって、それでわかりました何時何分出動を要請しますと、ただちに出動しますと、こうなるわけです。

 震災当時、兵庫県で防災係長を務めていた野口一行氏(インタビュー当時は消防課副課長)は午前6時45分頃には県庁に到着している。午前8時10分に自衛隊から電話が入ったが、このときには大変な災害になっていることは感じていても、県内の被害状況も分からず、派遣要請には至っていない。情報が圧倒的に不足していたのだ。そのときの経緯は、2回目に書いている。

 自衛隊が災害派遣の要請がない段階で既に「近傍派遣」として動き出して、救助活動を行っていたことは既に書いた通りである。

 だが、本格的に大規模な部隊を全国から動員するには、県知事の派遣要請が必要だっただろう。午前8時半からの第1回災害対策本部会議ではそこは話題になっていない。結果として派遣要請は午前10時になった。そのときのやりとりは極めてシンプルだ。

 午前10時、自衛隊から野口氏に電話で連絡が入る。

10時から部隊を出す、それで良いかと言われて、それでお願いしますと言ったんです。

 拍子抜けするようなやりとりだが、これが事実である。県知事が英断したり、よしっと政治決断を下すわけではない。

それで、そのことだけを持って知事のところに行ったのか、他のことと一緒に持っていったのかはわからないんですけども、僕自身の記憶はないんですけども、当時秘書課の職員も出てまして、それは間違いなく僕がそういうことを知事に報告したということを明言してますから、多分そうなんだと思います。

 このことは、県の公式記録にも残っているそうだ。当時、知事は6階の知事室ではなく、庁議室にいた。知事はそれでよいと了承したという。

 ただ、午前10時の段階でもやはり被害状況は把握できておらず、どこにどれだけの部隊を振り分けるかは自衛隊任せだった。

 これでいいのかどうかという議論はあるかもしれないが、これが「災害派遣要請」の実態だった。

市町の自衛隊派遣要請を県は把握していなかった

 被害が最も大きかった神戸市は自衛隊の災害派遣要請を行うよう県に求めたという。

 神戸市の元企画調整局長・山下彰啓氏はこう振り返る。

 9時半くらいまでの情報、すさまじかったですから、もうこれは対応でけへんなと。その時に、市長や助役、私やその場でみんな座って相談して、「もう自衛隊要請しよか。私言いますわ」と電話し始めたんですよ。そしたら、「あきませんねん。知事、県に言わなあかんようになってますねん」て、「知事に言わなならんか。ほな県何番や」言うて、で、「とにかく自衛隊の派遣を検討してくれ」と、「上層部に伝えてくれ」と言うて、だからそれは、係長だったもんですからね、誰も向こう責任者おらんかったですから、「上層部へ伝えて検討してくれ」ということで切ったんですけどね、その時は。

 山下氏が県庁に電話したのは午前9時半頃である。

 笹山幸俊市長(当時)も同じことを言っている。

 自衛隊には、早く知事さんに言うて、応援してもらわんと、このような状況はそんな簡単なものではないと。
 電話で連絡いたしました。
 あれは9時半頃…。

 ところが、神戸市から兵庫県への正式な自衛隊派遣要請は、県の公式の記録には残っていない。山下氏の電話を誰が受け取ったのかも、分かっていない。淡路島の北淡町(当時)も同様に県に自衛隊の派遣要請を行ったが、それも記録には残っていない。

 前出の野口氏はこう証言している。

 あの中で作業をやってた人間は誰一人、市町からの自衛隊の派遣要請っていうのは聞いてないです。

 「あの中」というのは兵庫県庁の消防交通安全課である。震災直後の大混乱の中で、最も被害状況を把握しているはずの基礎的自治体からの自衛隊派遣要請は県庁の防災担当はもちろん、県知事にも伝わらなかった。山下氏は再度、県に電話を入れて確認したが、既に午前10時を過ぎて派遣要請は行われていた。

自衛隊は活用すべきだが、過大評価すべきではない

 自衛隊は極めて政治的な存在だ。戦後、〝平和憲法〟である日本国憲法の下で、常に「合憲」「違憲」を問われてきた存在である。それゆえ、デリケートな存在でもある。阪神・淡路大震災で、大規模災害における自衛隊の存在は大きくクローズアップされ、災害対策における位置づけも高まった。東日本大震災でも、その役割は大いに評価されていたと思う。

 ただ、あまりにも自衛隊という存在を過大に評価しすぎて、木を見て森を見ずになっていることが気になる。

 今でも覚えているのは、石原慎太郎東京都知事が2000年9月3日に行った防災訓練「ビッグレスキュー東京2000」である。東京都は、葛西、晴海、銀座など都内10会場で自衛隊を大量展開した大規模な防災訓練を行った。

 銀座通りを自衛隊の装甲車が走る。都営大江戸線で迷彩服の自衛隊員を運ぶ。

 防災訓練というより、自衛隊のデモンストレーションである。絵柄が派手だが、訓練から学べるものは何もない。

 大規模災害時に自衛隊には何ができて、何ができないのか。タカ派政治家である石原知事には、そのことが理解できていなかった。だから、阪神・淡路大震災でたくさん犠牲者が出たのは自衛隊の派遣が遅れたからだと本気で思っていて、知事時代に幾度も発言していた。

 一方、自衛隊は相変わらずデリケートな存在であることは変わりなく、イベントや展示会に自衛隊が参加するとなれば、「市民」団体からの抗議は多かれ少なかれある。気持ちは分からないでもないが、いざという時にはあなたも自衛隊に救助されるかもしれない。

 私は今回、そのどちらの立場にも寄らないで、阪神・淡路大震災から学ぶべきことを整理してみたい。

①少なくとも、あの混乱の中で自衛隊は精いっぱい、県知事の派遣要請がなくても、できるだけの救助活動は行っている。

②仮に自衛隊が災害派遣要請をもっと早く受けていたとしても、圧死で亡くなった9割の犠牲者を救うことはできない。

監察医らは検案書を詳しく分析した。監察医が検案した神戸市内の死者約二千四百人の死亡時間は、午前六時まで、つまり震災から十四分以内が約二千二百人と、九二%を占めた。呼吸ができなくなると五分以内、長くても十数分で死に至るという。

 もっとも、発災15分以内に一気に何千人を同時に救助できるハイテクノロジーな大部隊がいれば、話は別だが。

③県知事による自衛隊の派遣要請は、当時の情報の混乱や寸断、技術の限界などにより遅れたのは事実だが、派遣(要請)をためらった当事者はいない。派遣要請とは単なる事務手続きでしかない。

最後に

 「阪神・淡路大震災オーラル・ヒストリー」を紐解く試みは、とりあえずこれでいったん終わりたい。「オーラル・ヒストリー」は個人の口述を記録したものだから、これがすべて正しいとは言えない。それぞれの立場からの視点は理解できても。だが、震災の当事者の声として、当時の出来事がどう映っていたのか、震災から26年が過ぎて記憶が薄れてきた今だからこそ、振り返る良い材料だと思う。

 まもなく、東日本大震災から10年を迎える。二つの震災で日本は多くの教訓を学んだ。

 ネットの言論空間は、時間が過ぎれば過ぎるほど、「まとめサイト」などで単純化され、事実でないこともあたかも事実であるかのように流布されることがある。だからこそ、一次資料は非常に重要だ。この「オーラル・ヒストリー」はネットにアップされる予定はないが、公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構はぜひ、これをネット上で閲覧できるようにしてもらいたいと思う。

 元々、30年間原則非公開としてインタビュアーの了解を取っているものだが、あと数年で震災から30年を迎える。紙のまま小さな資料室に保存しているのは、いかにももったいない。ぜひ検討してほしい。

※冒頭の写真は神戸市のオープンデータ「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」から提供を受けています。

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