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【阪神・淡路大震災26年】オーラル・ヒストリーから紐解く1・17~②初動のシナリオは破綻した

※記事に使用している写真は神戸市のオープンデータ「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」の写真を使用しています。冒頭の写真は、1995年1月17日に灘消防署を訪れた笹山幸俊神戸市長です。

 往々にしてイレギュラーな政権下では大きな災害が起きがちだ。東日本大震災では民主党政権だった。東京電力福島第一原発が水素爆発を起こしたとき、枝野幸男官房長官(現立憲民主党代表)が「何らかの爆発的事象」と宣ったのを見て、私はとことん絶望して、東京から避難しようと思った。阪神・淡路大震災では自社さ政権だった。1995年1月17日当時の首相は社民党の村山富市である。

 イレギュラーだからこそ、叩きやすい。村山のせいだ、社民党だからだと言っておけば、自分は安全圏に逃げられる。考えなくてもよくなる。しかし、実際にはどの政党が政権を握っていたとしても、誰が首相だったとしても、政府や自治体の初動の失敗は免れなかっただろう。

 前回と同様に、「阪神・淡路大震災オーラル・ヒストリー」から初動態勢の破綻について紐解いていきたい。

首相はNHKニュースで地震の発生を知った

 1995年1月17日、村山富市首相は公邸で朝を迎えた。午前6時にNHKテレビを見て、阪神・淡路で地震があったことを知った。しかし、当初は神戸の震度は分からなかった。

 ああ、これは大きな地震だなと思いました。それでとりあえず京都の知人に電話をかけて、どうでしたかと聞いたらね、揺れは大変大きかったけれども、幸いに被害はなかったと。その人は京都ですからね。で、そりゃよかったなあという程度にしか受け止めてなかった、正直言ってね。
 それから、秘書官から電話がかかってきて、「何か大変大きな地震があった、被害が大きくなりそうです。だけど、まだその現況が分かりません。分かり次第また連絡します」、こういう連絡ですね。それで、官房長官が国土庁やら消防庁やらに電話したりして、彼らも状況を掴もうとしたのでしょうけれども、それ以上のことは掴めなかったんじゃないですかね。
 ですからそんな意味からしますと、ああいう突発的な災害や事故に対する初動のまずさというのは、これはもう否定できません。やっぱりあれだけの大きな被害者が出たということについてはね、そりゃもう何としても弁明の余地はないんでね、当時の仕組み・機能からすれば、まあやむを得なかった点もあると思いますけれどもね。そりゃもう本当に弁明の余地はないですね。

 これは有名な話でもあるが、村山氏が兵庫県南部地震の発生を知ったのは、朝6時のNHKニュースである。それでも、村山首相が事の重大さを知ることはなかった。NHKテレビすら、現地の状況を掴んでいなかったのである。

どの程度の災害になっているのかという正確な情報がなかなか掴めなかったということは、これはもう一番の大きな問題ですね。そりゃある意味では、通信網やら連絡網が途絶えて把握のしようがなかった、ということかもしれませんけどね。

 村山首相が被害の甚大さを知るのは、当日のお昼を過ぎてからである。やはりテレビを見ていたら、神戸市長田区を中心に火の手が上がっているのを見た。

 そのときに、現地の消防庁長官から電話がありました。ちょっと時間ははっきり覚えてませんけれどもね、「大変です」と、「全力を尽くしてますが、水のことやら、道路の渋滞やら、なかなか思うとおりにいかない」と言うからね、「規定などにこだわらず、必要なことはやりつくせ」と、「やらなきゃいけないことは全部やりなさい」と、「あとは責任持つから」と、僕は電話でそう言ったんです。

 これでようやく、政府は「非常災害対策本部」を設置した。村山首相が被災地を視察に訪れたのは、2日後の19日だった。

 これだけでも、いかに当時の政府がのんびりしていたかが分かるだろう。

 もう一人、当時の内閣官房副長官の石原信雄氏の証言を。石原氏は1995年4月の都知事選に共産党を除くオール与党で立候補して、青島幸男氏に負けた人物である。勝っていれば、現在の都政は大きく変わっていたかもしれないし、のちの石原、猪瀬、舛添、小池の歴代知事もいなかったかもしれない。

 1月17日は月例経済報告のための閣僚会議が予定されていた。出勤前に必ず散歩をする習慣のある石原氏は、ラジオを耳にしながら散歩に出ていた。すると、6時のNHKニュースで関西地方に強い地震があったことを知った。災害対応のため早めに官邸に向かおうとした石原氏は散歩を切り上げ、自宅に戻ると、朝7時のニュースでNHK神戸支局の地震発生当時の映像を見たが、「ああいう大惨事になっているという意識はありませんでした」と語っている。

 石原氏が出勤する際、自宅前に番記者が待っていて、相当な被害が出ているようだと伝えられた。午前9時20分からの経済対策閣僚会議は予定通りに開催。10時からの閣議では非常災害対策本部を設置する案件を提出した。

 災害の時にもっと工夫して対応すべきことの最たるものは、情報連絡体制なんです。1月17日の午前中の段階では、あのようなすさまじい災害であるという情報が入ってこないわけですよ。したがって、私も含めて政府の関係者みんながあれほど重大な状況になっているという認識がなかったわけです。それというのも、現地の正確な情報が入ってきてなかったのです。最大の反省点というのは、ああいう大規模な災害が発生した場合にその情報が正確に即時に内閣に届かなかったということ。これが一番問題だった。なぜ届かなかったのかというと、防災無線は神戸にも兵庫県にもあったわけですが、その防災無線の発電機が倒れちゃったらしいんです。そのために防災無線が全然作動しない。もちろん消防の電話とか、警察電話とかはつながっておりましたけれども断片的なんですね、途中で切れちゃって。だから、災害の状況というのもまとめて内閣に報告する体制ができていなかった。
 これは恥ずかしい話なんですけれども、当時は国土庁の防災局が一応自然災害の窓口だったんですね。その防災局の防災担当が宿直してないわけです。消防とか警察は、もちろん24時間体制になってますけれども、防災担当のところは宿直がいなかったから、あの朝の情報が入ってこないわけです。官邸に届かないわけです。これは一番の反省点でして、私が官邸にいるうちにとにかく防災に関わる者は24時間体制で勤務するように、というので、すぐに改めたんですけれどもね。

 首相も、内閣官房副長官も、NHKニュースで地震の発生を知り、被害の大きさは官邸に出勤するまで把握できていなかったという点が当時の情報連絡体制の脆弱さを象徴している。

 ただ、擁護するわけではないが、当時は携帯電話も普及していないし、インターネットは誰もが使えるものではなかった。緊急地震速報が導入されたのは、阪神・淡路大震災の後のことである。そういう技術の進歩の限界もあったことは念頭に置いておきたい。

 では、当時の被災地はどうだったのか。当時の知事や市長、幹部職員らの証言を振り返ってみよう。

被災地ですら被害の現状を把握できなかった

 1月17日午前5時46分、当時の兵庫県知事、故貝原俊民氏は知事公舎で、激しい揺れで目を覚ました。

それで、もう戸が響き横揺れが続きましたから、それこそ、かたい畳の上で、ポンポン体が浮くような状態でしたね。で、家内と同じところに寝てましたから、地震だ、布団かぶれって言って、布団かぶろうとして、2人とも布団の中で、冬でしたからね、厚い布団で、お布団にしばらくかぶってね。
それでね、タンスが二つほど置いてあったんですがね、小さなタンスでしたけど、一つが倒れてましてね、後でね、タンスの上に飾りものなんかが置いてますけど、こりゃ当然全部落っこちて、ガラスとかは全部壊れて、散乱してましたね。

 貝原知事は110番や119番に電話してみたが、通じない(地震災害を想定していなかった当時の兵庫県庁は24時間体制ではなく、早朝は県職員は誰もいなかった)。知人や息子から電話がかかってきて、揺れたけれど大したことはないと聞き、「これは大阪がやられたんじゃないか」と思ったという。緊急地震速報がない時代、電気も電話も使えない状況で、神戸には大きな地震はないという思い込みから、まさか足元の震災とは思わなかったのである。

 外に出ると、まだ真っ暗である。電気は消えている。

海の方見渡す限り家はちゃんと全部建っているしね、だから、まさか後で知った神戸のような、神戸を中心とした都市の大被害が発生してるようなことは、そのときには逆に予想しなかったですね。

 そこで貝原氏は自宅で出勤の準備をして、連絡を待った。県庁には副知事が午前6時45分には登庁し、朝7時頃、貝原知事に電話している。結局、貝原知事は7時半頃に部下の車で県庁に向かった。それでようやく、大きな被害が出ていることを認識した。知事が県庁に到着したのは午前8時20分頃。最初の対策会議が行われたのは、8時半だった。

 野口一行兵庫県知事公室消防課副課長(当時の防災係長)は、午前6時前には自宅を出ている。前年に伊丹市で大雨が降った際に深夜、職員が誰も出勤しなかったことをマスコミに批判されたため、「早く動かなければならない」と思った。

通常はタクシーで出勤するというルールになっておるんです。で、タクシー券を実は私ども、それぞれ職員に持たしておるんですけども、タクシーを呼んでも三宮方面には行けない、と言う。僕は出かける用意をしてて、かみさんに呼んでもらったんですけども、どうも三宮方向に行くのを、タクシー会社は全部拒否していると。で、事情を聞いている暇はありませんでしたから、やむを得ず自分の車で行った。

 県庁に着いたのは午前6時45分頃だった。県庁は当然、エレベーターが動かない。12階にある消防交通安全課の執務室まで階段を上った。ドアにロッカーが倒れて開かないので、割れたガラスから中に入った。すぐに電話が鳴り始めた。多くは安否情報を求める県外からの電話だったという。

すいません、わかりませんというよりほかない。

 当時は県庁舎の代表電話はつながらなかったそうで、一般の人が直通電話をどうやって知ったのかは分からない。防災の拠点は時間が経つにつれて、野口氏をはじめ担当職員はひっきりなしにかかる電話対応に追われることになる。これではまともに仕事にならないだろう。

 被害状況は、登庁する職員の証言でしか把握できていない。

 午前8時10分に自衛隊からの電話が入った。

 ええ、あの、諸説いっぱい飛び交ってますけども、僕はそのときには確かに出動依頼ということはしてません。それはできる状態じゃなかったというのを、後でその辺が報道されましたけども、それは自衛隊の派遣要請をするときには自衛隊法第83条で事細かに言わなきゃならないという仕組みになってますし、そのことは防災計画にももちろん書いてましたから、具体的にどこへどれくらいの量で隊員さんを、自衛隊員を出してほしいということを事前調整しないと向こうは出ない、出せないという仕組みでしたから。

 野口氏の言葉を補足すると、仮に自衛隊に派遣するにしても、県内のどこがどういう被害を受けているのかという基本的な情報もないのに、ここに行ってくれと自衛隊に派遣要請することなどできないのだ。これまでの証言でも分かるように、阪神・淡路大震災の被害は活断層に沿って帯状に集中しているから、住宅がたくさん全壊した地域もあれば、知事公舎のように周りは被害を受けていない地域もあった。

 自衛隊の派遣要請に関しては、ネット上でも多くの誤解があるので、これは別の項で詳しく当時の流れを見ていきたいと思う。

市長を迎えに来たのはヘリではなく部下の車

 神戸市長の笹山幸俊氏も公舎で5時46分を迎えている。突き上げるような揺れで目を覚ました。

 まだ、暗かったのですが、近所の家を見たら潰れている家がないので「大したことはないんかな」と思っていたわけです。ですが、後で聞いたら皆さん、中身が倒れているわけです。クラックが入ったとか。ですから近所でもだいぶ建て替えられました。

 笹山市長は当初、徒歩で市役所に向かうつもりだったが、当時、御影に住んでいた山下彰啓市長室長が6時10分には車で市長公舎に向かい、笹山市長を乗せて市役所に向かっている。

 実は予定では、公舎に近い神戸市立高羽小学校に行けば、ヘリが迎えに来る予定だったという。しかし、実際にはヘリは飛ばず、市長自身も高羽小学校には行けなかった。山下氏が機転を利かせて公舎に寄って登庁したことで、いち早く市役所に登庁できたわけだ。

 市役所に向かう途中、笹山市長は初めて被害の大きさを知る。

 電線は倒れていますし、分断されていますから、途中まで行って引き返して。電線とかが危険ですから、バックして西向いてまた下に下がると。もちろん信号もありませんし、JRの六甲道の桁が落ちていました。通ったらあかんなと思いながら、うまいこと通って。山下君も怯えておったわけです。いつ電線が落ちてくるか分かりませんから。

 笹山氏が市役所に到着したのは午前6時40分ころ。まだ職員はほとんど参集できていなかった。市長室は15階にあるが、当然エレベーターは動いていないので、当面1階を本部にして職員が集まるのを待った。午前9時になると市民も集まり始め、市長らは8階に移動し、そこが本部となった。

 ヘリコプターで迎えが来るはずの市長に、市幹部が車で迎えに来たのはなぜか。山下氏はこう振り返る。

 ヘリコプターは、後から動いているはずですわ。と言うのは、ポートアイランドに2機やから、操縦者が行ったのがちょっと遅いんちゃうか。市長がね、何日も経ってから、プスッと言いましたのは「俺とこへはな、事故起こったら消防ヘリが迎えに来ることになっとったんやけどな」って。高羽小学校あるでしょ、市長の家の上のところにね、その高羽の学校がある。「そこへなあ、消防からヘリが迎えに来て、俺を連れて行ってくれることになっとったんや」。行かれへん。

 震災当時、ポートアイランドは第2期埋め立て途中。全域に大規模な液状化現象が起きていたほか、神戸大橋が通行不能に。ポートライナーも全線不通となり、島が孤立していた。消防とはいえ、ここからヘリが市長を迎えに行けるとは到底思えない。

 最近は財政問題で首長の公舎は廃止されるのが流れになっているが、常に議論になるのは危機管理体制だ。東京都の場合、知事公舎はないので、都知事は自宅からヘリで参集することになる。果たして、実際の首都直下地震のときに可能なのか、平時にシミュレーションと訓練が必要だ。もちろん、ヘリが飛ばなかった場合のシナリオも用意しておくべきだろう。

 そして、兵庫県知事も神戸市長も、早朝の闇に包まれた大混乱の中で機転を利かせた部下がいたというのも、特筆すべき点かもしれない。

東京都は初動態勢のタイムラインを策定

 ちなみに、東京都は東日本大震災の後、首都直下地震等対処要領を策定している。

 土砂崩れや家屋の倒壊などで生き埋めになった人の救出は、72時間がタイムリミットだと言われている。そこを過ぎると、救命率が下がる。そこで、72時間の初動態勢を時間を区切って整理したものだ。

 これだけ詳しくタイムラインに落としている自治体はあまりないのではないか。それが本当に機能するかどうかは別として。

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 東京都の場合、都庁に近い災害対策職員住宅に初動対応の職員が居住していて、東京都内で大きな地震があるとすぐに都庁に参集することになっている。すべて徒歩でも参集可能な距離だ。

 下記が37時間のタイムラインである。本部態勢のみ抜粋しておく。

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 もちろん、大切なのは、タイムラインに落とし込んである業務を淡々とこなすことではなく、ここに落とし込まれていない想定外の事態をどう臨機応変に対応していくのか、ではないか。兵庫県知事や神戸市長の部下は、知事や市長を迎えに行くというルールではなかった。そのときに機転を利かせただけだ。

 都知事も、マニュアル通りなら自宅近いにヘリが迎えに来ることになっているが、もしかするとヘリはやってこないかもしれない。代替の車も何らかの支障でたどり着けないかもしれない。そのとき、小池百合子はどう判断するのか。秘書課長はどう行動するのか。

 往々にして、紙に書いて落とした文章は役に立たないものだ。

 そのとき、都庁職員のふとしたひらめきが東京を救うのかもしれない。

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