生物の世界における当たり前の話

どうも、AKIRAです。
今日は、生物屋さんらしく、生物の話をしてみようと思います。

自然界では生き残ることこそが至上命題

皆さんは、人間がどうして言葉を用いてコミュニケーションをとるようになったのか、ご存じでしょうか。

…私も知りません。

いや、なんやそれ!と思われるかもしれませんが、知らないものは知らないし、第一それを知っていたとしてもこの目で見てきたわけではありません。
誰も、それが真実であるという保証をしてくれるわけではありません。

というわけで、以後、私の話の中では「人間がコミュニケーションを言語を用いてするようになった理由」を「偶然である」という仮定の下、述べていきます。

…さて。自然界では、様々な生き物が存在しており切磋琢磨して生きています。では、彼らが生きる目的は何でしょうか。
…まあ、普通に考えてそこに明確な答えを求めるのは難しいでしょう。一歩間違えれば哲学の分野になってしまいそうですしね。

そうなると、出せる答えは一つしかありません。
「生きることそのもの」が目的です。

…いやいやいやいや…と首を横に振ろうとしたそこのあなた。
では、それ以外の結論を出せますか?
それならば、きっと私以上の生きる目的を見いだせることでしょう。

では仮に。「生きることそのもの」を目的としたならば、生物学における各現象を考察するにあたって、何がもっともらしい答えとなるでしょうか。
それは、「何としても生き残る手段が選択されていく」という考え方です。

例えば、人間の心臓は心不全になった時、体全身に血液を巡らせることができなくなっていきます。心臓のポンプ機能が低下していっているためです。心不全になった心臓は、一回当たりの駆出率(血液を送り出す力のこと)がどんどん低下します。
…しかしそれでは生き残ることができませんね?

だから、何としても生き残るための方法を自ら生み出すのです。
その方法が、低下した分の血液量を送り出す回数を増やすことで補う、という方法です。
平たく言えば、心拍数が増加します。

こういう人体の現象を、代償機構といいます。
根本的な解決には程遠いですが、生命は自らの内に生き残るための力というものを内包しているのです。

そうはいってもすべての自然現象はそれを体現していない

では、それがすべての自然現象に当てはまるでしょうか。
多分そんなことはないと思います。
例えば、先ほど人間のコミュニケーション方法が言語を用いる方法になった理由を、私は「偶然である」と結論付けました。

もちろん、人類学者などに言わせてみれば「偶然ではない」とおっしゃる方もいらっしゃるのでしょうが、それは「人間がより良い生活をしていくため」という大前提が必要です。

そうでなければ、すべての生物は皆、言語によるコミュニケーション方法をとっていないといけなくなりますが、現実そうなってはいない。

つまり、コミュニケーション方法の選択は「生き残るために必須の検討事項ではない」ということになります。
繰り返しになりますが、コミュニケーション方法の選択は、生物種によって様々です。

少し、私のたとえ話が良くなかったかもしれませんが、このような偶然による進化論は、ダーウィンが語った自然選択(環境に適した方向に遺伝子の変異が決定づけられるとする考え)とは一線を画します。
これを、中立説といいます。

もっと簡単な表現をすると、優秀であると「される」もの「だけ」が自然界に残ったとしても、それらが確実に生存に有利となるわけではなく、一定の確率で偶然による行動の変化を起こす生き物もいる、という考え方です。

エリートだけが生き残る世界は存在しない、ということですね。

ここからが本題

さて、長々とよくわからないことを書いてきましたが、ここからが本番です。

ここまでの私の話をまとめると以下のようになります。

  • 生物は生き残ることを目的とし、そのための手段を持っていて、持っていなくても自ら生み出そうとする

  • それは、何も有利不利にかかわらずただの偶然によって引き起こされることもある

  • そういう意味では、優秀な種族だけが生き残るものでもない


・・・・・・・・・・では、皆さんに質問です。

あなたの生きる意味は何ですか?

Ans. 誰よりも偉くなりたい?
→いや、そうだとしたら偉くなった時点で生き残る意味失いますやんか。

Ans. お金が欲しいからお金を稼ぐため?
→生物学においては、それは食料をとってくる力に相当しますから、金を稼ぐとことを至上命題にすると強い種だけが残ることになりますね?……あれ?

Ans. 自己顕示欲のため?
→ということは、自らの存在さえ示せれば生き残ることは二の次になりますね。……ん?

Ans. わからない
→…そうでしょうね。

結局、生きる意味など分からなくて当たり前

結論、こういうことになります。
そうなると、もはや「生きている」という事実を追求し続けることでしか人間の生き方を定義することは「理論上」できません。

だからこそ、他人の価値観を否定することが、いかに生物学的でないかがわかるかと思います。

そうなると、一番しっくりくる考え方は、「生き残ることにこそその意義を求め続ける」という生き方をするしかないのです。
そうしていれば、いずれ答えは見えてくると私は確信しています。

人に嫌われることにおびえたり、自分の価値観を否定されたり、論理的に間違っていると理詰めで自信を否定されたり、言いようのない罵詈雑言を浴びせられたり……。

この世界は、どこまでもどす黒く、もはや何のために生きているのかもわからなくなっていっても仕方ない世の中です。

しかし、生きる目的を考えたとき、「生き抜くことでしかその答えにはたどり着けない」と分かれば、余計なことを考えることはなくなっていくでしょう。


何よりも、自分らしく・自分を大切に。
そして、いっそのこと傍若無人に生きてみてください。

もしかすると、答えにたどり着けるかもしれません。

…というわけで、生物的視点で生きる意味を考えてみました。
ここまで読んでくれてありがとうございます。

それでは、また。

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