論理的であるということについて

皆さんどうも、AKIRAです。
本日は私が少し気になったことについて軽くお話ししようと思います。
専門的な話ではないので気軽に読んでもらえば、と思います。

論理は社会で生きるためのツールに過ぎない

皆さんは論理的な考え方をする人についてどう思いますでしょうか。
私は「一緒に仕事をする分には困らない人」だな、と感じます。私自身、仕事などでは論理を「使って」います。

…さて。違和感を覚えたそこのあなた。
その感覚は正しいです。

私にとっては、論理は「道具」にすぎません
はっきり言って論理を自分の生きるルールにはしたくないのです。
こんなことを言い出すと、話の通じない人のように見えますが、どう考えるかはまず私の記事を最後まで読んでからお願いします

「論理的に生きる」は生物学的に矛盾している

皆さんに一つ質問です。
この世界で人間以外に「論理的に生きている生物」を何でもいいので一つ挙げてみてください。

思い当たりましたか?
おそらくですが、「ない」あるいは、「はっきりとそう言えるだけの生物はいない」が答えとして挙がってくるかと思います。

原因は簡単です。
そもそも論理は生きるために絶対に必要な要素とは言えないからです。
あるとすればそれは、人間という生物種が同種間で種族特異な活動を行う際に必要になるだけの話で、そもそも「生きる」という目的に必要であるわけではありません

人間は言葉を用いて、頭で考えて行動に移す生き物です。よって、人間的な営みをするにあたり論理的な力というのは必須なように思います。
しかし、そのすべてがそうであるということは間違っても言ってはいけないのです
「AだからB」なんていう発想は本来、必ずその必然性が確固たるものとして確定されているものでもない限り危ない発想であるといえます。

論理は考えを統率する力

物事をただただ遂行するのであれば、決まったプロトコルがあればいいだけの話です。
この点で論理というのは非常に便利だといえます。

「Aという事象に対してBということが予想されるのでCを実行した」

「つまり、Cという行為はその必然性を認められるに足る行為である」

…非常に明快な論理であり、だれもが納得しそうな文面であるように感じます。
しかし、これを日常生活に多用すると大変なことになります。

「Aという事象に対してBという予想から、Cを実行することを考えたが、Dという可能性もあり、Eということもまた一定の割合で起こると考えられ…」

……キリがないですね(笑)

あくまでも論理は「考えを統率する力」にすぎません。
人生を圧倒的に楽にする万能器ではありません。どれだけ論理で解決できそうな事象であっても、そこにはありとあらゆる「不確定要素」がちりばめられており、現実的な問題として下手をすれば「あえて解決しないことで処理できてしまう問題」というのも存在します。
俗にいう、「時間が解決してくれる」というやつですね。

論理的な考え方は一元的になる

論理的な考え方をすれば、少なくとも個々人の動きがバラバラになることはないですよね?
逆にそうやって一つの基準となる考え方を作っておけば、人の動きをある程度コントロールすることができるのです。むしろ一元的になる、といったほうがいいかもしれませんね。

物事を判断するときの基準が論理の基礎ということであれば、そこから外れた人間は論理的でないとして生態系の行動規範から外れる。…それが、人間社会というものです。
行動規範から外れた人間は、様々な末路をたどりますが別段全く問題にならないことだってあります。
つまり、これは絶対的な基準ではないのです。…一方で、論理的な考え方の基礎がないと、言っていることとやっていることが食い違ってガタガタになってしまいます。

妥当である、と判断できる論理という基準は一元的なものでありながらも、それ自体は人の営みの中で確かに必要とされるものでもあるようです。

結局はバランス

一元的になった人間は、融通の利かない人間になります。
逆に、基準にあまりにも従わない人間はただの暴走車です。

すなわち、バランスの取れた状態を目指さなければならない、ということです。
しかし、人間はいちいち明確な基準がないと一貫性が保たれない生き物です。ゆえに、仕事にかかわる考え方は「論理的に」、基本的な考え方は「生物学的に」。というように私は考えています。

とはいえ、皆さんがどう考えるかは皆さんの自由ですのでここまでにしておきます。

というわけで以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
失礼します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?