10,000字の自己紹介〜挫折と幸運が人をつくる〜
陸上競技に打ち込んだ学生時代
小学校の頃から「走ること」だけには自信がありました。中学生の時には兵庫県で一番になったこともありました。卒業式では「オリンピックで金メダルをとります!」と宣言していました。
高校時代m結果的にインターハイに出場することができました。しかし、持って生まれた身体的な資質にはかなわない。持って生まれた才能には勝てないのだと打ちのめされた3年間でした。
陸上競技は個人競技ですが、顧問の先生は「団体競技だ」とよく口にしていました。
応援する側、サポートする側が一体となって、チームで戦う。
振り返ると競技中も楽しかったですが、サポートする側の時が一番やりがいを感じていたかもしれません。
緊張している後輩の気持ちを和らげたり、ゆるーい雰囲気を言葉ではなく空気感で締め付けたり、感受性の強さをその場その場で活かしていたような気がします。
選手から、指導者へ。
20歳の頃、「陸上の指導者やってみない??」と友人に声をかけられたことをキッカケにボランティアとして指導者登録。学生に指導をしながら、実業団/社会人チームとして試合にも出場していました。
週に4カ所7〜8教室。年間でざっくり300回のかけっこ教室に参加。24歳頃には自分がメインコーチとして運営する教室もスタート。
「神戸で、兵庫で、いや日本で一番の指導者になる」
そんな目標を掲げて参加していました。
しかし、25歳の時に「自分は指導者には向いていない」ということに気がつきます。解剖学とか、筋肉の特性とか、トレーニングの種類とか全然覚えられませんでした。「コーチ、どうやったら早く走れるかアドバイスください!」そう言われても、全くわかりませんでした。
周りの人は的確なアドバイスをしているのに、自分は全くわからない。
競技者としての限界だけではなく、次は指導者としての限界を感じました。
「自分は、知識や技術を教える指導は向いてない。だけど、エンタメとして子ども達を楽しませることならできるんじゃないだろうか?」
そう思ったことをキッカケに、苦手な勉強を始めてみたり、本を読んでみたり、別のコミュニティや仕事へと飛び込むようになりました。
SNSをキッカケに拡がるご縁
ある時、キングコング西野さんが絵本制作のためにクラウドファンディグをしていることを知ります。
「あなたの好きな場所で、この絵を使った個展を開催できます」
「え、神戸でやりたい!」
しかし、地元・神戸では別の方が主催ということを知ります。
「じゃあ、西野さんの地元でやったら喜ぶんちゃうかな?」と考えツイートすると、ご本人から返信をいただきました。
そこから新しいチャレンジが始まりました。
クラウドファンディングを立ち上げ、資金と共に仲間も募りました。しかし、プロジェクトリーダーとしての準備や行動が甘く、途中で参加できない状態となってしまいました。
ずぶの素人が行う初めての企画が「芸能人の個展」「地元凱旋」「国宝の神社で開催」と、いま考えるとよくやったなと思います。
「もっと出来たよな・・・」と反省することも多くあったり、ブチギレられたこともありました。今でも悔しい思い出です。
しかし、延べ1万5158人の方にお越しいただいたイベントとなりました。
SMAPになっちゃえ。
「このまま終わりたくないな・・・」
個展のプロジェクトから外れてしまった当時、子供の頃から憧れていたSMAPさんが解散。面白くて、かっこよくて、どこか寂しそうな人たち。そんな憧れの人たちがいなくなってしまう。
でも、嘆いているだけでは何もはじまらない。
何かできないかな?そこで、こう考えました。
そこで「SMAPの曲のみ」のDJライブを開催することにしました。
大金を出して箱を抑え、手売りでチケットを販売しに周り、自分もステージに立ち一緒にダンスパフォーマンスをさせてもらい。
これが正真正銘初めての企画でした。
失うものなど何もない、好きなことをやってみよう
本を読み学んでいく中で「寿命が長くなり働き方も変わっていく中で、若い頃から多様なチャレンジをした方が良い」と思うようになりました。そこで25歳から30歳までは、自分が興味関心を抱いた場所や仕事をどんどんやってみることに決めました。
「ここで、働きたい」
ある日、神戸に本社を置く企業「フェリシモ」社長の矢崎さんの著書を拝見しました。
「ともにしあわせになる、しあわせ」という理念と、地元・神戸で業種にこだわらず行う事業内容に心の底からワクワクしました。
「フェリシモさんで、働きたい」
ワクワクした気持ちは、いてもたってもいれなくなりました。
その場でFacebookからダイレクトメッセージを送り直談判。
そしてお食事をさせていただく機会をいただきました。
その時、思い描いていた理想の話をしました。何をしたのか今では覚えていません。プレゼンスキルも知識も何もなく、ただ一生懸命に話していたはずです。
目の前にあった紙におもむろに何かを描き始めました。
そして、こう言ってもらいました。
その後、フェリシモさんでは2ヶ月間インターンとして働きました。
しかし、窓際の席で人見知りを発揮して何もできない日々。威勢よく入ってきたくせに、何もできなかったことは今でも心残りです。
その後、別の職場を紹介してもらいますが1ヶ月で退職。
職場の空気感に合わすことができず、逃げるように去っていきました。
「あー、せっかくの機会をもらったのに、、合わす顔がない・・・」
申し訳ない気持ちがある反面、、、恐怖心でいっぱいで会いにいくことも出来ませんでした。そして次のご縁をもらった東京へと向かいました。
東京での仕事
Webメディアsoar 短期インターン時代(2018.10-12月)
取材を通じて多様な障害や病気、目には見えにくい生きづらさを知っていきました。中でも、取材から携わった「強迫性障害」「インクルーシブ学童」「HUMORABO」さんの記事が印象的です。
「福祉は、みんなのもの」
この言葉は、今でも胸に刻んでいます。
CAMPFIRE(2019.1-12)
キッカケは家入さんのアシスタント募集に応募していたことでした。
最初の3ヶ月はアシスタントとして、その後、広報の方が抜けたことで空いたSNSの担当にスライドしました。
東京・渋谷・ど真ん中。
テレビを観ているとCMが流れ、SNSで見たことある人がオフィスにいる。そして昼休みにはタピオカを飲みに行き、終日満員の電車に揺られ帰る日々。
まさか、こんな場所で働けるなんてという夢のような日々を過ごすことができました。
東京での暮らし
地方と比べると、家賃やランチなど物価は高いです。でも、圧倒的に早い情報のスピード感や、刺激的で行動的な同世代がゴロゴロいる環境は、自分の視野を大きく広げてくれました。「若い時に一度でも東京で働いてみた方がいいよ!」と思っています。
そして、いろいろな場所で、いろいろな暮らし方を体験できました。
「シェアハウス」と一つとっても多様な形があり、距離感や空気感も全く違います。1人の時間が大切だけど、独りぼっちの時間が苦手。
そんな自分にとって、誰か別の人がいるだけで、安心感が生まれることがありました。
タニンの葬儀に参加して人生が変わった
東京で働いていた当時、長期休暇をとって地元の神戸に帰りました。自分には実家がないので「はっぴーの家」に向かいます。
するとたくさんの人が集まってきました。
「今日の夕方、お亡くなりになった人がいて」
そこから三日三晩かけ、その場にいた人やスタッフ、地域の人と一緒に手作りのお葬儀を行いました。
それまで「死」はとても怖い存在。自分の人生とは距離感があり、できるだけ避けてきました。しかし、その葬儀で体験したことは「決して悲しいことだけではない」ということでした。
そんな出来事と思いをnoteに書き終わった時、「神戸に帰ろう」と決意しました。
神戸に帰ってたらコロナ禍になった
そして2020年の頭から地元に帰省。入れ違うように世界中でコロナが始まります。そんな中でも暮らしと仕事をゴチャ混ぜにしながらの仕事は続いていきました。オンラインで死生観を問う企画がはじまったり、クラスターになった施設では現場のお手伝いを続けました。
Happyという場所で学んでいることは「人生はどうにもならないこともある」ということです。多種多様な人が集まり、みんなそれぞれの価値観を持ち、人と人とは完全にわかりあうことはできないと思わされます。そして、波を眺めるようにフラットなスタンスで自分を保ち続けることも大きな価値なのだと思っています。
2021年、ようやく出会った、PRという仕事
これまで多くの仕事を経験してきましたが、求められたのは「届けること」や「伝えること」が多かったような気がします。入り口に立ち人を迎え入れ、時に接着剤のようにくっつけたり、時にスピードをゆるませたり、時に適当にあしらってみたり。翻訳者になったり、緩衝材になってみたり。「なんとなく良いよね」という目には見えない価値を届けたり、表現することに興味があります。
そんな時、「PR(パブリック・リレーションズ)」という仕事に出会います。教えてくれたのは株式会社on-coの福田さん(PRのお師匠)です。
「どんな仕事をしてもやり切れない感覚があったけど、PRという答えのない哲学においては、やり切れるかもしれない」。そう思い「PR」という仕事を意識的に学び実践するようになりました。
新しいチャレンジを踏み出した2023年
「このままだと、ゆっくり衰退していくのかもしれない」
目の前の仕事で目一杯になっていた時、同じ環境の中にい続け、新しい何かへの挑戦を進めていなかったことに気がつきました。
そこで、オンラインで学んでいたPRのリアリティを学ぶ為、三重県と名古屋へその身一つで乗り込んで学びに行ってみたり。
コミュニティマネージャーの仕事を体系的に学ぶため「コミュニティマネージャーの学校」へ通ってみたり。
そして著書を拝見していた阿部幸太郎さんの連続講座、「企画でメシを食っていく(企画メシ)」へ参加し、自分の過去について徹底的に向き合いました。
「諦めるを、前向きに」
過去を振り返ると、自分が大事にしている価値観に気付かされます。
これまで自分が興味が湧くものには「ネガティブ」が隠されていました。「なんでこうなんだろう?」とか「もっとこうしたらいいのに!」という希望や怒りに対して、ユーモアを持って転換する。そんな瞬間や企画が好きです。
「福祉」に興味があるのも、一見ネガティブなことをポジティブな方法で解決しようとしているからです。
「諦める」という言葉。
一般的に「諦める」という言葉はネガティブに捉われがちです。
しかし、本来の意味は「やってみて、できるできないを理解して、次にどうするかを決める」ということです。
つまり、めっちゃ前向きな考え方。
自分の名前にも「あきら」や「前」というワードがあることから、「諦めるを、前向きに」というワードを作り、自分自身で握るようになりました。
夢はコレクティブハウスを作ること。
過去と向き合った結果、未来を考えるようになりました。
そして、夢について考えるようになりました。
夢とはキラキラしたものと思われがちです。しかし、キラキラしただけではまさに夢物語で終わります。夢が破れ、現実に戻った時、それでも思い浮かぶ夢こそが本当の夢なのだと思います。
僕の夢は、コンプレックスの中にありました。
血のつながった人がこの世からいなくなってしまったという「家族」であり、そこから空虚さを感じるようになった「孤独」という穴です。
と、いうことで自分の夢は「自分が欲しい暮らしを作ること」です。
2030年までにコレクティブハウスを作り、理想の暮らしを作りながら仕事を続けていこうと思っています。
その為に必要なことを身につける為に、日々の仕事や暮らしを続けていこうと思っています。
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2.価値観を表すキーワード
3.これからのこと
2030年の夢は「コレクティブハウスの運営」「業務委託での仕事3社」「文筆家活動」という3つの仕事を中心に、well-beingな状態で人生を過ごしていくこと。
そのために、2025年から統合的に企画を動かしていく「クリエイティブディレクション」や「プロデューサー」という肩書きを名乗れる仕事を行う。
そのための軸として「PR」を中心としたスキルと哲学を深め、成果を残していく。
向こう6年先の自分からいまの自分を展望し、いちいち騒がず淡々と展開し、夢に向かって進んでいこうと思います。
4.仕事のこと
自分が社会において自分が役割を果たすことができるのは、この3つだと思っています。
できること / やっていくこと
〜5.いろいろ〜
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もしくは、SNSでDMくださーい。
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