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読書感想文 世界音痴

歌人でエッセイストの穂村弘さんの著作。短めのエッセーがたくさん。

感想1 わけわからん

文字はわかる。単語もわかる。しかし、感覚がわからん。
いや、わからなくはない。理解はできるが、絶対にわかってないという自信がある。でもわからなくてもいいか、という気持ちもある。

エッセーを読んで感じることは、世界の感じ方は人それぞれである、ということ。他者のエッセーを読むことで、一時的にその人の見方で世界を見ることができる気がする。
全く新しい学びや気付きや刺激がある反面、その見かたに慣れてないので、ぼやけていたり、ゆがんでいたり。
こういう感覚を「他人の眼鏡」で表現することもあるが、それとは少し違う。顕微鏡や望遠鏡の感覚。度数ではなく倍率が違う。見る対象も違う。だから発見できることも違う。

その違いを「変なの」で片づけることなく、でもわからないのに「だよねーわかるー」とすることもなく、「わけわからん」と受け止めたいと思った。

感想2 世界を楽しんでいる

作者はふとした瞬間に学生時代や幼少期を思い出す。それも実に鮮明に。このエッセーを書いている時、彼は39歳らしい。わたしとそれほど年も違わない。彼の尺度で見れば、私は家も買い、結婚もして、子供もいて、転職もして、まあ、経験値が高い部類だ。

しかしながら、私は彼のようにふとした瞬間に鮮明に思い出せる記憶があまりない。というか、そんな経験をした記憶がない。それは私と彼の世界の楽しみ方が違っていたからだろうか。

いずれにせよ、ふと蘇る思い出が、彼の青春時代のきらめきのなによりの証左であり、世界を存分に楽しんでいたのだろう、と推察する。

感想3 新しい読書の形になる・・・かも??

これまで私の読書の主眼は主に「何かを学ぶ」ことにあった。だから新書や実用書や専門書が本棚の大半を占めている。小説は物語を楽しむために読む。

エッセーはこれまでほっとんど読んでこなかった。そこから何かを学ぶこともあまりないし、ぶつ切りでこれといった結論やエンディングがないエッセーに不完全燃焼感を抱きやすいからだ。
実は、世界音痴を読んでいる時も、「んー、もういいかな」と何度か思いながら、ひとまず読み進めた。読み終わった結果、やはり読書前と比べて何かが変わったということはないし、小説を読み終えた後の読了感のようなものもない。

だが、どことなく、肩の荷が下りた感じはある。読書という行為になにか別の目的や意図を付随させる必要は必ずしもないのだろう。究極的には、読了感やわくわく、楽しみ、などの感情さえ抱かなくてもいいのかもしれない。ただ、本を読む。字を追う。今いる現実世界から、一時、別の世界に踏み込む。それを味わうことだけで読書として成立するのかもしれない。

やったことはないが、リゾート地で特にすることもないから、面白くもないけど、本でも読むか。みたいな贅沢ともいえる時間の使い方を垣間見たような気がする。

決してこの本が面白くないというわけではありません!
くすっとする叙述や、そんな風に物事を見るんだと驚く描写もあります。
忙しい日常で張りつめた糸をこちょこちょっとほどいてくれるような、そんな一冊だった気がします。

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