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災害のリアリティ #私のキニナル

「日刊notersマガジン」3週目。継続は力なりですね。連休明けの火曜日担当アキラです。

今週のテーマオーナーは自分でして、「最近の私のキニナルこと」としてみました。#私のキニナル というテーマで連載陣がそれぞれ世の中を切り取ります。

【私のキニナル=「災害」】

私のキニナルは日本を襲う「災害」についてです。本年、本当に多くの災害が日本を襲っているのは御存じのとおりです。

(記憶に新しい「北海道胆振東部地震」)
災害で亡くなられた方に心よりご冥福をお祈り申し上げます。また、被害に遭われた方が一日も早く元通りの生活に戻られることを願っております。

【災害と私(リアリティを感じられるか)】

日本に生きている身として、常に災害の危機には晒されています。自分自身は、一昨年に自宅マンションを購入する際に初めて「ハザードマップ」をガッツリ読んだことを覚えています。

他方、東京に生活している自分自身にとっては直接的に大きな被害が無い中でリアリティをどこまで持てるのかという問題があると思っています。それは被災地にお住いの方、被災地に家族やお知り合いがお住いの方、被災地にお勤めの方以外には程度の差こそあれ同じ感覚なのではないかと。

ぶっちゃけ、過去の記憶はクリアには残っていないのが正直なところですし、今年の大阪地震についてですら、少し薄れているところがあります。

そんな情けない自分ができることは、「被害に遭われた方に心を寄せることと同時に、なにがしかの気付きを得ること」だと勝手に解釈しており、今回のnoteを書いたきっかけになります。

【日本の災害】

私が物心ついてから記憶にある多くの災害の中で、特に印象的だったものをピックアップしますと、

・去年まで
雲仙普賢岳火災流(1991年 死者43名)
阪神淡路大震災(1995年 死者6433名)
東日本大震災(2011年 死者1万5895名 行方不明者2533名)
平成26年の豪雪(帰宅時に雪に埋まって死にかけました)
御嶽山噴火(死者57名)
熊本地震(2016年 死者251名)

・2018年
大阪北部地震
西日本豪雨
猛暑
北海道胆振東部地震

あくまで自身の記憶なので異論はあるかと思いますがご容赦ください。特に自分自身にとって大きかったのは「東日本大震災」です。地震直後に現地にボランティアに行かせていただき、この目で見たことが大きいと思いますが。

(バスから見た南三陸町。衝撃でした。)

(こんなになってしまうんだと・・・)

【災害とリアリティ】

災害から何かの気づきを得るという観点では、「リアリティ」が大切だと思っています。そして、「リアリティ」を感じるためには「想像力」が必要だとも。風化していってしまうことに抗えるかは別の話になりますのでここでは控えますが、一つ一つの「災害」にリアリティを感じられるかというのは、非常に重要だなと思っています。

自分がリアリティを感じられるようになったきっかけは、上記の東日本大震災でした。被災地のボランティアでの出会いがその直接的なきっかけです。避難所で出会った三人のおばあちゃん。

(左から、なっちゃん、せっちゃん、やっちゃん)

【そこに生きる人がいるということ】

三人のおばあちゃんと会ったのは、4月1日。気仙沼市立小泉中学校の避難所でした。救援物資を配る担当だった僕は、三人の近くに行き「何か必要なものはありますか?」と声を掛けました。すると、

「何にもいらないよ。ただ、元の生活に戻りたいよ」

と自嘲気味な笑顔でなっちゃんが答えます。そこで何も言えなくなってしまった僕に、せっちゃんが

「お兄さんから元気をもらえたら、もう少しなら頑張れるかも」

と声をかけます。何ができるか分からないけど、まずは話を聞こうと思ってみんなが座っている輪の中に入りました。そこで、ひたすら話を聞いていた時に、

「ああ、この人たちはこんな状況の中でも自分の思い出を大切にしたいと願っていて、先の見えない状況になんとか光を見出そうとしているんだ」

と何か重いものが心に届いたことを覚えています。そこで、僕は正解か分からないけれど、

「疲れているだろうから、マッサージさせてくれませんか?」

と提案をしました。はじめは断られましたが、リーダー格のなっちゃんがマッサージを受けてくれることに。無力感に打ちひしがれそうになっていた自分が、マッサージをするという本当に微々たるものだけど、力になれているのかもと思えると何故だか涙が溢れそうになっていました。

すると、マッサージを受けていたなっちゃんが涙を流していることに気が付きます。

「お兄ちゃんの手から、愛が伝わってくるようだよ。明日、東京から孫が来るから、その時もマッサージをおねだりしようかな」

とくしゃくしゃの泣き顔で言ってくれたのです。

何故だか自分が救われた気がしたのを今もリアルに覚えています。結果的にはその周辺の方も集まってこられて20人近くの方にマッサージをさせて頂きました。腕はパンパンだったのですが、人の為に何かができている実感を感じた瞬間でした。

実は、連絡先を伝えた僕に一年後におばあちゃんズからメールが届きます。本当に感動でした。今でも年賀状のやり取りをしています。(この話は長くなるのでまた今度どこかで)

(増えたおばあちゃんズ。めっちゃ干し柿くれました。うまかった。)


#やらぬ善より 、やる偽善

僕の災害へのリアリティはこの瞬間から始まりました。と同時にリアリティを感じるということは、実は結構リスクを伴うのだなと思っています。なぜなら、「それって偽善だろ!」とか「本当に被災者や被害者のことを考えているのか?」という批判にさらされるためです。

(鋼の錬金術師の一コマ。ウィンリィのお父さんです。このシーンも感動的なんです。敵とされる部族を救うシーン。)

千羽鶴を送られて迷惑している、必要以上の物資が届いてしまい避難所が混乱している。実際、僕が訪れた避難所でもそういった声は聞きました。実際にそういった側面もあるのだと思います。

手法について気を遣う必要はもちろんあると思いますが、僕は

「やらぬ善より、やる偽善」

だと本気で思っています。

みなさんが、災害に対してなんらかの行動を起こしリアリティを持つことで、この世界が少しでも良い方向に進むことを願っています。自分も行動し続けます。

【最後に】

そんなこと言っても、批判されるのは怖いという方も多いと思いますし、無関心を決め込んでいるほうが楽だと思う気持ちは自分にもあります。

そんな時に勇気を与えてくれるのが、マザーテレサの言葉です。

「いずれにせよ、もし過ちを犯すとしたら、愛が原因で間違った方が素敵です」

ほんとこれ。ほんとうにこれ。自己満足だって最初はいいじゃないか。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。世界で一番恐ろしい病気は、孤独です」
「暗いと不平を言うよりも、あなたが進んで、明かりをつけなさい」
「説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから」

批判されることはあるけれど、その行動の根本が善意であればよい。そう思っています。

「もしも私たちが謙虚ならば、褒められようと、けなされようと気にしません。もし誰かがあなたを非難しても、がっかりすることはありません。反対に誰かがあなたを褒めてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思う必要もありません」
「私たちは大きなことはできません。ただ、小さなことを大きな愛で行うだけです」

以上です!

明日は、5時こーじ!

https://note.mu/kojijico/n/n3c1b9a3a9925

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