読書って変な行為だ

読むって行為はじつはすこし変な行為だ。

仕事をしたり、食事をしたり、洗濯をしたり、掃除をしたり、恋人と話したり、ツイッターを眺めたりしている日常生活の間に本を読む。

物語の世界や、誰かが私に何かを体系的に語りかけていたり、日常の細々したことを語りかける。

その語りを読んでいる時は、私の現実ではない「ように」思える。
日常が分断するみたいに。
どこか別の世界に急に行くのだ。
それは忘我の境地かも知れない。
本が好きな人はこの境地を楽しんでいるんじゃないかとさえ思えてくる。


我を忘れる。現実を忘れる。

その時だけは、荒波の中を進む船に乗って目的の島に向かったり、建物へ逃げ込む犯人を追いかける刑事になったり、尊敬する師が死んだ信心深い三男と父親殺しの疑いがある感情的な長男の人間性に関する劇的な冒険譚をみたり、言葉が錯綜する論理の深淵に向かったりする。

でもそれって、全ての日常がそうじゃない?
映画を観たり、カレーとタンドリーチキンとサーモンとアーモンドのサラダを作るために思考をめぐらしたり、ゴルフをやったりするのと、って言うかもしれない。

同じといえば同じだけど没入の深さが違う。
正確に言うと映画も料理もゴルフも読書と同じように日常を分断するくらい熱中することが出来るかもしれない。

でも現実と日常を分断しないでもできると思う。

ぼーっと眺めるように映画も観れるし、料理も慣れてしまえば話しながらでも出来てしまうし、ゴルフだって同じだ。


でも読書って他のことを考えながらはできない。

読むか読まないか。
没入するか、しないか。
日常を分断するか、しないかだ。

中間項のぼーっと読むとか、何かしながら読むっていうのはない。
あったとしてもかなり難しい。

これは言語の処理をするとか、理解するとか、想像するという文字を読むことの仕組みに関係しているんだと思う。

じゃあネットサーフィンも同じかい?
同じといえば同じかも。

でも物語とか理論家が何かを体系的に語る、その強度ってネットの文章とは少し具合が違う気がする。
ジャーナリストの壮絶な語りとか、コンテンツやサービスの特性上、一部例外があるかもしれないけど。


現実を忘れるためにする行為なんて言うなら、読書っていうのはお酒を飲むことと同じなのかもしれない。
でもそうすると学校で教えているのはお酒の美味しさです、となる。
なるほど、だから文系なんていらないと言われるのか。
なんせお酒の飲み方なのだから。

でもお酒の飲み方だって社会に出たら役に立つかもしれないじゃないか。
お酒の席でビシバシ新規の契約を取っていく人もいる。
スマートにお酒を使った空間を攻略するのだ、それがお酒の飲み方だとかいって。

文学作品の学びの不幸なところは、お酒の飲み方みたいな忘我の境地と共存するかたちで、読解力の向上とか、時代や文化の理解や想像力の向上、人間の内面性にかんする学びという、すごく真面目な側面を持っていることだ。

だから一般的には小説や評論から学ぶことって重要っぽいよね、という事になっている。


読解力の向上とか、文化的な理解や想像力の向上とか、人間の内面性の深い洞察に当たる部分は、読書を楽しむ人達の、楽しんでいる部分の半分なんじゃないかと思う。
つまりそれは「内容の面白さ」に関係している。

もう半分が「忘我の心地良さ」。
現実逃避し、お酒を飲むように我を忘れて高揚する。依存に近い魅力を持っている。
我を忘れて、現実逃避をして、ストレスを発散し、メンタルを健全に保つ。
これってつまり瞑想だ。
やっておくと日常がうまくいくような内面性を作ることができるというようなものだ。

この読書のもう1つの側面も実は人にとって重要なんじゃないかと思えてくる。

それに読書をする上で必要な要素としての、感じる事や読んで体験することの強さ、つまり1つ目の内容に関わる側面にも、我を忘れて入り込むことは関係している。


読書とは、お酒を飲むことと瞑想に似ている。
そして少しほかの行為より変わっている。
そしてその楽しさを伝えるのは、言語の読解という過程があるがゆえに多分難しい。(その過程の一癖が実は重要だというのに!!)

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