恋はきっとチョコレートでできている

「人の体ってチョコレートでできてるの?」

カナタと幸が二人きりでいる生徒会室。書類仕事に飽きたのかカナタが幸に唐突に一言放った。

「…何を言っているの?」

幸は書類仕事をしていた手を止めて目の前にいるカナタを凝視した。カナタは書類仕事の手を止めてデスクに突っ伏して、幸を上目遣いで見ながらペン回しをしている。

「いやさ、疲れたら糖分を取れっていうじゃん?チョコレートって糖分取りやすいじゃん?幸もよくチョコレート食べてるでしょ?」

「…まあ」

「だから人間の体はチョコレートでできてるんじゃないのかなって」

アホすぎる。意味がわからない。多分意味を深く考えてはいけない感じのやつだ。

幸はカナタからそっ…と視線を逸した。決してこの意味のない会話に関わりたくなかったからではない。断じて。

「あ、幸今私と関わりたくないって思ったでしょ?だめよ、私から目をそらさないで。ほら会長命令」

幸はため息をついて仕方なくカナタの紺碧の瞳と目を合わせた。いや、仕方なく、というのは語弊があるかもしれない。命令というのも可愛いもので、ほぼカナタのおねだりである。幸はこのカナタのおねだり命令に弱かった。カナタからこのおねだり命令をされると幸はなぜか逆らえなくなってしまう。幼い頃から人と目を合わせるのが苦手な幸でも、カナタには不思議と自然に目を合わせられた。

「あ、やっと目を合わせてくれた。顔は見てくれるようになったけど、幸はいつも目は合わせてくれないから」

「そう、なんだ。…ごめんね」

なにが、と自身もはっきり分かっているわけではないけれど、幸はカナタに謝っていた。カナタは幸に親しく接してくれているのに、不可抗力とは言えまるで余所余所しくなってしまった。会長としても、友人としても、カナタのことは嫌っているわけでもない。寧ろその逆だ。それだけに幸は自分のどうしようもない態度が焦れったかった。

「いいの。目を合わせるのが苦手って人少なくないしね。…あ、もしかしてさっきの命令嫌だった?命令とか言っちゃったけど全然命令じゃないし無理しないでいいしなんなら嫌なことは無視しても」

「大丈夫」

「…幸?」

「大丈夫よ。…本当にもう、大丈夫なの。だから、あの…」

口下手な自分がもどかしい。貴方は私を気遣ってくれて、それを有り難いと思うけど私は気遣いなしで貴方を受け入れたいと言いたいだけなのよ。

幸は大丈夫、と言ったきり何を言っていいか分からず困った目をカナタに向けた。心の中に言いたいことは溢れている。だが言葉にしようとすると、まるで口から離散するように何も言えなくなってしまう。繕いや建前なら饒舌になれるのに、あれほど得意だったのに、どうしても気持ちを言葉にすることが幸はできなかった。幸は頭の中の字引きはそれなりに厚く豊富である方だと自負している。だがその分厚い鈍器は、ただの役に立たない白紙だらけの本と化していた。カナタは口ごもる幸を無表情の感情の読めない深い宇宙色の目でじっと見つめた。幸はそれに気がついて慌てたように何か言い直さなくちゃ、と頭の中でページを捲る。

「あっ、あの、ごめんね、カナタ。上手く言えないけど、嫌じゃないし迷惑じゃないし。もう大丈夫だから。いや、カナタならいつでもって訳じゃないけど、ほら、さっきみたいな感じなら大丈夫で、えっと、なんというか、カナタならなんでも大丈夫じゃないけど、カナタなら大丈夫なことがいっぱいあって、だから、」

「もういいよ」

だから、嫌いにならないで。

そう続けようとした幸はカナタに遮られてヒュッと息を飲んだ。

もしかしたら私はカナタに嫌われたのかもしれない。それもそうだ。言い訳がましく大丈夫と言って、しかも必死になりすぎて半分拒絶のようなことも言ってしまった気がする。

幸は目の前が白くチカチカ光るような気がした。カナタの目を見ているはずなのに、紺碧の何かに冷たく覗かれているような気すらした。幸は回らない頭で謝らなくちゃ、と咄嗟に考えた。

「…ごめん」

「…え、」

「ごめん、なさい」

「ちょ、ちょっと幸、」

「ご、ごめん、ごめんなさい」

「ちょ、落ち着いて、」

「ごめんなさい、ごめんなさい、カナタ」

「幸」

一際大きな声で名前を呼ばれ、幸は俯いていた顔をはっと上げた。突っ伏していたはずのカナタはいつの間にか起き上がり、幸の手を握っていた。カナタは幸よりもやや高い身長であるだけなのに、カナタの手のひらは幸よりも身長以上に大きく、幸の手を包みじんわりと冷たい幸の手に暖かさを伝えた。カナタの体温は幸の心を静まらせていた。

「カナ、タ…」

「ふふ、落ち着いた?」

「うん。…あの、カナタ。ごめ、」

「こーら、謝らないの」

じゃあ、どうすればいいの?

幸は困ったようにカナタの目を見つめた。珍しく自分から。珍しく抵抗もなく。カナタは幸の深紅の目が自分から紺碧を覗いているのに気づき、にこりと微笑んだ。

「あのね、幸。幸は誤解してたみたいだけど、私、ちゃんと分かってるから。幸が言いたいこと、ちゃんと伝わってるから」

「…あんなに、言葉になっていなかったのに?」

「うん。ちゃんと分かってるよ。私が幸に色んなことを許されてること。まだ許せないことも」

「あっ、カナタでも大丈夫じゃないっていうのはその、悪い意味じゃなくて」

「さっきも言ったでしょ?ちゃんと分かってるって。あのね、幸。誰にだって踏み込まれたくない部分はあって、幸は偶々それが他人より広くかっただけなの。幸はだんだん許容範囲を広くしてきたけど、それでもまだ踏み込まれちゃ嫌な所があるんだよね?」

「…うん」

カナタはいつになく優しい声で幸を諭した。心に張っていた透明な膜がまた一つ溶けるような気がした。

「私、幸にああ言って貰えて嬉しかったんだ」

「…結構拒絶するようなことも言った気がするんだけど」

「あれが拒絶に入るならいつもの幸やみんなとのやり取りは抹殺レベルなっちゃうよ。幸って意外と不器用だからさ、上手く言えなかったんだろうけど、私は幸の心の色んな部分に踏み込むのを許されてるってことを言いたかったんだよね」

「…うん」

「私、嬉しいんだ。そんなに幸に信頼されてるのが。幸なりの言葉で一生懸命伝えてくれたのが」

「…私のこと、嫌いになってない?」

「嫌いになんてなるもんか。それとも、幸は私のことが嫌いかな?」

カナタは握っている幸の手をさらりと一撫でする。幸はぶんぶんと首を振った。

「ふふ、愚問だったね。ねえ幸、幸は私が思っていたより私のこと信じてるんだね?」

「…多分」

「多分じゃなくて絶対そうだよ。…ふふ、思い出すとアレ、普段感情を漏らさない幸にしては結構なラブコールだったんじゃない?」

「は、別にラブコールじゃ」

「なんだっけ?『カナタなら大丈夫なことがいっぱいあって…』」

「ちょ、思い出さないでよ!」

「も〜照れんなって」

「照れてねえわ!」

そうは言ったものの幸は顔を覆う前髪の隙間からも判る程に真っ赤な顔をしていた。カナタはそれを見てニヤニヤしている。幸は目の前の生徒会長を殴ろうか一瞬悩んだものの今の羞恥で頭がいっぱいの何もできないと悟り大きく息を吐いた。

「…カナタ」

「うふん。なあに、幸?」

「うふんとかキッモ」

「そんなこと思ってない癖に。だって私のことべろべろに信じちゃってるもんね?」

「…やっぱり生徒会長様とは関係を考えるべきかしら?」

「すいませんでしたガチトーンはやめてください」

幸が他人行儀な口調で話すと調子に乗りすぎたと分かったのか、カナタは途端に姿勢を正してへりくだった。幸はそんなカナタがなんだかおかしかった。幸がクスクス笑うと、カナタはそれをキョトンと見つめている。

幸はそんなカナタを面白がるようにちらりと見て、幕を下ろしていた前髪をどかす。もう壁は何もなかった。閉ざされていた光が瞳に射し込んだ。深紅に光が反射し、すきとおったルビーに変幻した。幸はいつの日かぶりの遮りのない視界でカナタを見つめる。

「…すき」

幸はいつの間にか小さく呟いていた。

「…え、」

「ッえ、あ、ごめ、なんでもないから気にしないで!」

かあっと幸の頬に熱が集まった。

誤魔化せばいいのか否定すればいいのか、幸はわからなかった。とにかく幸は、察しは良いが鈍感であることに定評のあるカナタが幸がひた隠しにしていた気持ちに気づかないことを願っていた。いや、もしかしたら心の何処かで気づいて欲しいと願っていたのかもしれない。だが、ここで知られてしまったら今まで築いてきたカナタとの関係が崩れ去ってしまう。幸は目を白黒させて、とにかく焦っていた。カナタは数秒口を開いたまま静止していたがやがて柔和な笑みを浮かべた。

「私も、好き」


ドクン


脳に鼓動が鳴り響いた。


ドクン


幸は目を見開いた。口元の空気はヒュッと吸われたきり停滞している。


ドクン、ドクン


一瞬が永遠のように思えた。どれほどの時間が過ぎたがわからない。しかし、幸はこの間を永遠に感じていた。

「カ、ナタ。それって、」

冷静でなんか、いられない。

幸の鼓動がまた一つ速くなった。抑えきれない期待と全身に巡る血で指先まで熱くなるような気がした。

「私達、入学してからの付き合いじゃん。嫌いならここまでコンビ組んでやってきてないよ」

「…は、」

「好きだからコンビ組んでるの。私達、友達でしょ?」

「………はぁ」

「…え?幸、どうしたの?そんな大きなため息なんかついて」

「何でもない、何でもないよ。カナタはそのままでいて」

なにがなんだか分かっていないカナタは首をかしげた。相変わらずの鈍感に幸は苦笑して見せるしかなかった。鼓動はまだ収まりきっていない。落胆が無いと言ったら嘘になる。期待なんかするんじゃなかったと思う半面、期待をいつも良くも悪くも裏切っていくカナタが愛おしかった。

「…ねえ、どういうことなの?」

「おバカな会長サマにも分かりわすく言うと、カナタの頭がチョコレートでできているってことかしら?」

私の頭もね、とはカナタには言ってやんない。

「ちょっと、それって貶してない?」

「気のせいよ、気のせい…ま、あんな期待させたんだからこれくらいは許されるわよね」

幸はボソッと呟いた。心の中で留めるだけじゃ気が済まなかったからだ。

「ええ…」

「さ、書類に戻るわよ。カナタそれ期限近いんじゃなかった?」

「あッ、そうだった!」

カナタは大急ぎで書類と格闘を始める。幸はそれをまた前髪越しに目を細めて見つめた。髪で遮られているが、幸の心はもう何の障壁がなかった。今度こそ、素直に好きと言える気がした。

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