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BARほど素敵な隠れ家はない 第三章

第三章 大人へのモスコミュール 篠原那奈


――やはりまだ早過ぎただろうか。

篠原怜子は黙然と歩きながら考えた。
確かに一度は教えておいた方がいいだろう。それは間違いない。だが……

「へええ、私こんなとこ来るの初めてだ。ねえねえ怜ちゃん、この辺結構それ系のお店多いんだねー」
「……そりゃ絹衣町きぬえちょうだからね。言わば色街だから」
「男の人ってみんなこういうとこ来るのかなあ。うわ、何これ人妻ナントカって。すごいねー、結婚しててもこういうとこで働く人っているんだぁ」
「あほか。本当に人妻かどうかなんてどうだっていいんだよ。客にいちいち、この人の妻です、なんて住民票見せるわけじゃないんだから」
「あ、そっかー。じゃあ私も人妻って言えば……」
「やかましい!黙って着いて来なさい」

怒鳴られてようやく口を閉じたものの、相変わらずきょろきょろと物珍し気に辺りを見回す様子に思わず溜息をつきながら、怜子は細い路地裏に入ると小さな店の前で足を止めた。
表通りの煌々とした淫靡な灯りもここまでは届かない。

「――はい、着いたよ。言っとくけど、店の中であんまり大声出さないように。いつもあんたが行くような居酒屋じゃないんだからね」
「判ってるって。へえ『バー・ヴォルフィ』だって。怜ちゃん、早く早く」

怜子はもう一度ため息をつくと、腹を括って重いドアを開けた。
暗い道を歩いてきた眼に、暖かい光が眩しく飛び込む。

「いらっしゃいませ……ああ篠原さん!珍しくご予約頂いたと思ったら……あれ、篠原さんは確か……」
「――私の姪。とりあえず二十歳を超えたから、一応お祝いというか、まあそういうことで」
「篠原那奈です」

へえ、と目を丸くするバーテンに那奈がぴょこりと頭を下げる。案内されたテーブルに落ち着くと、那奈は興味深げに店の中を見回した。

「なんか意外ー。カフェみたいだね。怜ちゃんがバーっていうから、もっと暗いところ想像してた。暗くてカウンターしかなくって、丸い椅子がずらっと並んでさあ」
「スツールと言いなさい。丸い椅子じゃなくて。そういう店にあんたを連れてくと目立ってしょうがないからね。下手すると未成年飲酒に間違えられかねない」

童顔の那奈は、へへへとはにかみながら壁のメニューをしげしげと眺めた。

「生ハムの盛り合わせ、サーモンのカルパッチョ、季節野菜のバーニャカウダ……ねえ怜ちゃん、バーニャカウダってどんなのだっけ?」
「ガーリックとアンチョビベースの熱いオリーブオイルソースに野菜をつけて食べるやつ。いいけどさ、まず先に飲み物決めなよ。あんたも一応飲めるとは聞いてるけど、何がいいの?」
「モスコミュール!!」

間髪入れぬ即答に、思わず怜子がのけぞる。

「いいけど、またずいぶんキッパリしたもんだね。モスコミュールが好きなの?」
「だってジンジャーエールが好きなんだもん。ほら昔、江梨子おばさんの家で手作りのジンジャーエール出てきたことあったじゃん。あれがめっちゃ美味しくてさあ、あれから好きになったんだ」

江梨子おばさん、というのは怜子の叔母のことだ。やはり独身だが暮らしぶりが丁寧で、品の良さが服を着ているような女性だった。怜子も子供心によく憧れたものだ。もっともその後の怜子は、ずいぶんと違うタイプの女性に成長してしまったのだが。

「まあいいや、何でも好きなもの頼めばいいよ。それじゃ食べ物は?」
「えー、なんかみんな美味しそうで迷う~。怜ちゃんのおススメは?」
「おススメというか、まあここは自家製のミートボールが売りだけど。じゃあとりあえず生ハムの盛り合わせとサラダにでもしとく?それからメインでミートボール」

那奈は嬉しそうに頷いた。

「怜ちゃんは何飲むの?」
「私はいつもジントニックから入るから」
「ひょー、カッコいい!オトナ~!!」

怜子はがっくりと首を垂れ、今夜何度めになるか判らない溜息を吐いた。

「お待たせ致しました。こちらモスコミュールでございます。篠原さんはいつものジントニックですね」

バーテンダーがテーブルの上にトールグラスを二つ置いた。どちらにも櫛切りにしたライムが浮いている。

さっそく口をつけた那奈が歓喜の声を上げた。

「すごぉい、全然違うー!」
「うちのは自家製ジンジャーエール使ってますから。市販のものより辛口ですが、そのぶん風味も香りも段違いですよ」

バーテンダーの説明に、那奈は眼を丸くした。

「すごいね、やっぱバーって本格的なんだ。怜ちゃんは普段こういうとこに行くの?」
「まあ、そうだね。会社の忘年会とかなら居酒屋や割烹の店に行くこともあるけど」

ジントニックを啜る怜子に負けじと、那奈もグラスを口に運ぶ。

「へええ、いいなあ。そんで暗いカウンターに座って、『いつもの』とか言うの?」
「言うか、あほ。こっちの顔を知らないバーテンさんもいるんだし。それに慣れてる店でもちゃんと確認はしてくるよ。客の気分なんてどう変わるか判らないんだから」

ふうん、と那奈は相槌を打つと、自分のグラスをしげしげ眺めた。

「でもさあ、正直カクテルっていっぱいあり過ぎてよく判んない。モスコミュールは居酒屋でもよくあるけど、これって結局ジンジャーエールと何?」
「ウォッカとジンジャーエール、それからライムジュース。さっきバーテンさんが言ってたとおり、使うジンジャーエールによって甘口と辛口がある」

那奈は感心したように怜子を眺めた。

「すごいね怜ちゃん。全部覚えてるの?」
「そんなわけないでしょう、プロじゃあるまいし。ただ有名なものは自然と覚えるってだけのことだよ。お店によっては、メニューにちゃんと書いてある場合もあるし」
「でもさあ、今日は怜ちゃんと一緒だからいいけど、はっきり言って私みたいなトシじゃ場違いもいいとこじゃん?そんなにしょっちゅう来られないから覚えられないよ」

一応己の立場はわきまえているのかと苦笑した怜子は、傍らのバッグから一冊の本を取り出すと、ぽんとテーブルの上に置いた。

「これ、あんたにあげるから暇な時に読んでみな」
「何これ」

そう言いつつも那奈が手を伸ばす。

「見てのとおり、カクテルの本。私が若い頃に買ったやつだよ。カクテルの名前から使うお酒や材料、アルコール度数とかが載ってるから、ざっと目を通しとくといい。さすがにレシピまで覚える必要はないと思うけど」

それはハンドブックサイズの小さな本だった。興味津々の目つきで那奈がパラパラとページをめくる。

「えーとモスコミュールは……あ、ほんとだ。ウォッカ・ジンジャーエール・ライムジュースだって。へえ、モスコミュールって『モスクワのラバ』っていう意味なんだ。ラバってあれだよね、馬の小さいのみたいな……」
「馬とロバを掛け合わせたやつ。何でここにラバが出てくるのかは私にもよく判らないけれど、ラバは後ろ脚で蹴る力が強いから、お酒の強さを意味するキック力と引っ掛けてるっていう話らしいよ」
「モスコミュールってそんなに強いの?」

怜子は困ったように首を傾げた。

「それがそうでもないんだ。弱くはないけど、まあ中程度というところなんだよね。だから余計意味が判らない」

そう言うと怜子と那奈は顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出した。

「怜ちゃんでも知らないことがあるんだね。お酒のことは何でも知ってるかと思った」
「そんなわけあるか。そういう蘊蓄みたいなのはどうだっていいんだよ。あんたがこの先知っといた方がいいのは、このお酒が強いかどうかってことと、自分がどのぐらいまでなら飲んでも大丈夫かっていうラインだよ」

那奈は手許の本をパラパラとめくった。

「モスコミュールはアルコール度数が12だって。12が中ぐらいなの?」
「普通のビールが大体5度ぐらい、日本酒やワインが15度ぐらいだから、それを基準にすれば何となく想像がつくでしょう」

那奈はなるほどと頷いた。

「ジンやウォッカ自体は40度以上だけど……」
「たかっ!!」
「でもストレートで飲む人はほとんどいないからね。だからそこに載ってるカクテルの度数をざっと頭に入れておくといい」
「じゃあ逆にウィスキーのストレートやロックは相当強いと思った方がいいのかな」

まあそうだね、と怜子が頷くと、那奈は天井を仰いだ。

「ウィスキーとかはまず飲まないからいいんだけどさ。カクテルなんてたくさんあるわけでしょ?それこそ本になるぐらいさ。その度数をひとつひとつ覚えるなんて無理ゲーじゃん」
「まあそれもそうだ。だから細かい度数がどうこうより、出されたカクテルが強いかどうか見分ける方法を覚えておけばいい」
「どうやって?」

怜子は自分のジントニックのグラスを掲げた。

「グラスの形だよ」
「形?」
「そう。カクテルは一般的にロングドリンクスとショートドリンクスに分けられる。ロングは比較的長い時間をかけて飲むもの、ショートはその反対。それはそのままグラスの形に現れるんだよ。こういうトールグラスやタンブラーみたいにたっぷり入っているカクテルは、それほど強くはないことが多い。例えば今私たちが飲んでる、ジントニックやモスコミュールの類だね」

那奈はふうんと自分のグラスを眺めた。

「反対に映画なんかで出てくるような小さい逆三角形のグラスね。ああいう小ぶりなグラスで出されるものは気をつけたほうがいい。代表的なのはマティーニとかマルガリータとか。名前ぐらいは聞いたことあるでしょう」
「マルガリータとか、名前は上品そうなのにそんなに強いんだ。えーと……げっ26度!それからマティーニ、だったっけ……35度!?ひえー、モスコミュールの三倍近いじゃん!」

猛然とページをめくり始めた那奈を、怜子は苦笑して眺めた。

「まあ本は家で見なさい。こんなところで堂々と広げるんじゃないよ。今言ったのはあくまで原則であって絶対じゃない。でもとりあえず注意するには便利な方法だ。メニューに写真が載ってることも多いし、先々誰かに勧められて『量が少ないから大丈夫かな』なんていう、致命的な勘違いをしなくて済む。まあいちばん確実なのは、頼む前に強いかどうか店の人に聞くことなんだけどね」

那奈は頷いて本を閉じると、ふと何かに気づいたように怜子を見た。

「でも怜ちゃん、これもらっていいの?怜ちゃんが困らない?」
「私は家にもう一冊あるんでね――もっと分厚いやつが」

にやりと笑う怜子につられて那奈も笑うと、大事そうに本をバッグにしまった。

「でもこんなの全然知らなかった。今までカクテルって言っても、せいぜいカシスソーダとかカルーアミルクぐらいしか飲んだことなかったもん。普段学生が行くようなお店には、そんなに本格的なカクテルなんてないからさ」

「確かにそうだ。でもあんたもこれで短大を卒業すれば、来年は社会人だからね。これまでよりお酒を飲む機会は増えるかもしれないし、行く店も変わるでしょう。会社の飲み会で自滅したら馬鹿みたいだし、変な男に騙されでもしたらとんでもないことになる。だから最低限のことは覚えておいた方がいい。判らないことはちゃんとお店の人に聞けば教えてくれる。とにかく自分の身は自分で守ること」

はあい、と那奈が調子よく返事をしたところに、いい匂いのする熱々のミートボールが運ばれてきた。目を輝かせてフォークを手に取る那奈を見ながら、怜子はやれやれどれだけ判ってるんだか、と苦笑いを浮かべた。

怜子の兄の娘である那奈は、一人っ子で溺愛されて育ったせいか、どうにもまだ幼い。独身で子供のいない怜子にとっては、娘がわりとまではいかないものの、それなりには可愛がってきた。また那奈もこの風変わりな叔母を慕い、怜ちゃん怜ちゃんと小さな頃から後をついてきたものだ。その那奈が来年から社会人になるかと思うと、なかなかに感慨深いものがある。

「でもさあ、怜ちゃんは誰にこういうの教わったの?全部独学?」

ぼんやりと物思いに耽っていた怜子は、那奈の台詞で我に返った。

「そう……だなあ。バーとかのことは基本自分で行って覚えたよ。と言うか、お店の人に教えてもらったという方が近いかな」

その時怜子は、ふと自分が学生だった頃のことを思い出した。普段はほとんど口を利くことのない父親が、ある時ぽろりと怜子に漏らしたことがある。
怜子がそう言うと、那奈は興味深々で身を乗り出した。

「えー、なになに?おじいちゃん、何て言ったの?」
「カクテルには気をつけろ、って」
「は?何それ」

怜子は肩をすくめた。

「そう、私もまさに今のあんたと同じ反応をした。そりゃそうだよね、いきなりそう言われても何のことか判らないし」
「おじいちゃん、結構怖い雰囲気だったもんね。まあ私には優しかったけどさ。優しいっていうか甘いっていうか」

怜子は遠い記憶をぼんやりと引き起こしながら続けた。

「よくよく聞いてみたらさ。要するに、カクテルは口当たりがいいから飲み過ぎないように気をつけろっていうことだった。特にジュースで割ったものは元の酒の味が判りづらくなるから、って。この場合のジュースっていうのはフルーツ系のものね」

「たとえばどんなの?」

「父さん、つまりおじいちゃんがその時挙げたのはスクリュードライバーだった……ああ本は見なくていい、ウォッカとオレンジジュース。実際昔は『レディーキラー・カクテル』とも言われてたらしい。普段滅多に話もしない父親がいきなりそんなこと言うもんだから、結構こっちもびっくりしてね。おかげで未だによく覚えてるよ。あんたも一応アタマに入れときなさい」

そう言うと怜子は二杯めの那奈のグラス、テキーラ・サンライズを指差した。

「そっか、これもオレンジジュースが使ってあるもんね。確かに怜ちゃんのジントニックとかと比べると、お酒っぽさが弱く感じる。でもアルコール度数はそんなに変わらないんだよね?うわー、飲み過ぎないように気をつけよう。ところで怜ちゃんが今飲んでるのは何だっけ?」
「これはギムレット」
「それもジン?でもショートタイプ、だよね?だから強いってこと?」

怜子は黙ってグラスを那奈の方に押しやった。華奢なカクテルグラスを恐る恐る口に運んだ那奈は、舐めるように口に含んだ途端、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。

「何これっ!つよっ!!」
「――30度。これでも同じジンのマティーニや、ウィスキーベースのマンハッタンよりは弱い」

テーブルに突っ伏した那奈は、やがてよろよろと立ち上がった。

「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくる。今のギムレットショックでびびったわ」

そう言うと、店の奥にある化粧室に向かって行った。その間に怜子はバーテンダーに合図して、水を二つ頼んでおいた。

「はい、チェイサー。それにしても篠原さん手ずからの教育とあらば、姪御さんも将来は酒豪ですかね」

バーテンダーはにやりと笑って、二つのグラスをテーブルに置いた。

「さあてね。ただあの子の両親、つまり私の兄とそのお嫁さんはあまりお酒が得意じゃないの。そのくせあの子は大きい声じゃ言えないけど、短大入った頃から結構飲み会行ってるみたいなんだよね」
「へえ。こう言っちゃなんだけど、短大だとやれサークルだ、合コンだと寄ってくる男も多そうだ」

怜子は冷やかすように笑った。

「さすが西岡さん、よくご経験がおありのようで」

嫌だなあ、一般論ですよとバーテンダー・西岡が笑う。

「まあ冗談はさておき、とりあえず社会に出る前に一度ぐらいは教えておいた方がいいかと思ってね……しかもこれだし」

怜子が飲みかけの那奈のグラスを顎でしゃくると、西岡は頷いた。

「仰るとおりです。もし怜子さんが言わなかったら、差し出がましいけど僕が言うつもりでした。どうやら今日は姪御さんの体験授業とお見受けしましたので。まあでも篠原さんがご一緒なら大丈夫ですね。どうぞ教えてあげて下さい」

西岡はこちらに戻ってくる那奈をちらりと見やり、怜子に頷くとカウンターへ戻っていった。

「お待たせ~。バーテンさんと何しゃべってたの?あ、お水!良かったあ。今向こうでちょっと口ゆすいできたんだ。さっきのめっちゃキツかったから」

そう言うと那奈は水の入ったグラスを手に取り、こくこくと一気に半分ほど飲んでしまった。

「うん、そうやって適度に水を飲んだ方がいい。気の利いたところだと、頃合いを見計らって出してくれるところもあるし、頼めば普通に出てくる。ただし有料の場合も多いけれど。私も二軒続けて行く時なんかは、間にコンビニで水買って飲むよ」

すると再び西岡が寄ってきて、那奈のグラスに新しく水を注ぎ足した。怜子が話している間に那奈がほとんど水を飲み干していたからだ。

「あ、ありがとうございます」

西岡は、にこりと那奈に微笑みかけた。

「バーでお水を頼むのは、全然悪いことじゃありません。お酒の味が混ざらないようにお口の中をリフレッシュさせる意味もありますし、ちょっとした酔い覚ましにもなります。どうぞ遠慮なくお申し付け下さい。ちなみに強いお酒のあとを追うようにして飲むものを“チェイサー“と言います。まあ一般的には水を指すことが多いのですが」

「別に頼む時は普通に『お水下さい』でいいよ。『チェイサーいかがですか?』って聞かれたらお水のことだと思っとけばいい――それから那奈。途中で席を立つ時は、飲み残したままでいかないように。必ずグラスを空けてからにすること」
「え、何で?もしかしてこれってマナー違反?」

那奈はテーブルの上のグラスを見て、慌てたように怜子と西岡の顔を見較べた。

「いえ、そうではありません。あくまで万が一、というお話ではありますが、グラスに飲み物を残した状態で席を立たれると、その間に何かまずいものが入れられる恐れがあるからです」
「まずいもの?」

那奈は話のスジが見えないのか、きょとんとした顔つきだ。

「そうです。たとえば睡眠薬とかそういう類のものです。もちろん許されることではないのですが、男性が連れの女性のグラスにそういうものを入れるのは、昔からある手口です。今で言うデートレイプ・ドラッグですね」

那奈は仰天したように西岡を見上げた。

「え……そんなのドラマか何かだけの話だと……」

西岡は厳しい顔で首を振った。

「そんなことはありません。もちろんしょっちゅうではないですが、私自身カウンターに立っていて何度か遭遇しました。他の席のお客様が『あの人、クスリ入れてたよ』とこっそり教えて下さったこともあります。当然そのグラスはうまく誤魔化して引き下げました」
「昔は手っ取り早く目薬なんていう手段もあったしね」
「目薬?」

また古い話を、と西岡は苦笑した。

「昔の目薬はね、口に入れると後から酩酊状態になるものがあったんです。だから男が、席を外した女性のグラスに目薬垂らしたりしたんですよ。今から見たらもう犯罪ですが、当時は平然とそういう真似がされてたんです。でも大丈夫ですよ、今の目薬にはその成分は含まれていませんから」

「まあとにかくそういうこと。相手の男性が親しい人かどうかや、複数で飲んでいるとかは関係ない。グラスに飲み物を残したまま席を立たない。それに尽きる。さっきも言ったとおり、自分の身は自分で守ること。別に女性に限った話じゃないんだよ。男性だって同じようにされて、モノ盗られたりすることもあるんだし」

西岡がそのとおり、というように頷く。

那奈はどうしよう、という顔で目の前のグラスをじっと見つめた。

「馬鹿だね、私がそんなもの入れてるわけないでしょうが」

だが那奈は子供がべそをかく寸前のような顔つきで叫んだ。

「――だって怜ちゃん、昔こっそり私のお寿司にワサビを山盛りにしたことあったじゃん!」

狭い店の中に、怜子と西岡、そして店中の客の笑い声が一斉に響き渡った。
どうやら那奈のバー修行の道は、まだまだ前途多難のようだった。 

第一章 始まりのジントニック 陣野雅之
第二章 挑戦のソルティドッグ 鹿島みのり
第三章 大人へのモスコミュール 篠原那奈
第四章 始まりのジントニック・再び 篠原怜子

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