労働基準監督官日記⑥-前編-

 日々あった出来事について備忘録的な気分で書いた以下の記事内容は全てフィクションです。


 労働基準監督官とは、労働基準関係法令に基づいて、原則予告なく事業場(工場や事務所など)に立ち入り、法に定める労働条件や安全衛生の基準を事業主に守ってもらうよう、必要な指導を行い、労働条件の確保・向上と働く人の安全や健康の確保を図る厚生労働省所属の国家公務員のこと。


 時刻は朝9時頃、当日は生憎の大雪であったが、胸元に厚生労働省と書かれた服を着用し大量の荷物を携えた僕たち突入1班の姿を、ある程度は目立たなくさせてくれていた。
 有料駐車場から3分ほど歩き目的のビルに到着し、班員の半分はエレベーター、半分は階段を使い4階まで移動する。幸いにも誰ともすれ違うことはなかった。
「カメラ回してる?」
 扉の前でF主任に小声で聞かれたS先輩は頷く。
「じゃあ行きますか」
 F主任は振り返り僕たちの姿を確認し、目的の扉を開いた。


 事の発端は半年以上前に遡る、賃金不払の申告であった。
 会社で営業を勤めていたUさんはそれ以前にも同様の件で申告をしていたのだが、当時の調査はいろいろあって不発に終わっていた。Uさんと社長の主張があまりに食い違い、法違反の特定が困難だったのである。業を煮やしたUさんは民事裁判に訴え、その結果Uさんの主張は認められるに至り、「賃金全額を支払え」という判決が下っていた。
 ところが、社長は「あんな仕事もしないやつに金が払えるか」「仕事をしないやつに金を払うのは自分の正義に反する」と強硬に主張し、この判決を無視し賃金を支払っていなかったのである。
 これにUさんは、「自分が正しいことは裁判ではっきりしたので、今度こそ金を払うよう監督署から指導をしてほしい」と、2度目の申告を行ったのであった。
 
 だが、予想通りというべきか、署からの再三の出頭命令に社長は一切応じようとしなかった。厄介な件ということでF主任が主担当、自分が副担当として対応していたのだが、来署しないどころか電話にも出ようとしない。決まって電話に出た事務員が少々お待ちください、と保留にし、しばしののち「社長はいません」と言うばかりであった。明らかに居留守である。

  書面や電話ではだめだと、F主任と自分が何度か会社に赴き社長に会おうとしたのだが、これもまた出てきた事務員が「少々お待ちください」と事務所に引っ込み、何事かを誰かと話してからしばらくして戻ってきて、「社長は本日不在にしております」というやりとりが繰り返された。もちろんのこと居留守である。中では商談中らしき声が聞こえていた。

 そんな折、F主任と自分が別件で外回りをしており、ついでにいつもの会社を見てきますかと車を走らせたところ、偶然会社近くのコンビニの駐車場で社長を見つけた。実のところ社長の姿を見たことがあったのはF主任だけであり、自分はそれが初めての邂逅となった。60をとうに過ぎているという社長の頭髪は、見事に鮮やかなピンク色のパンチパーマをしており、地味な格好をした通行人がほとんどのオフィス街で明らかに異彩を放っていた。
「どうも社長」
 駐車場でLチキを食っていた社長に、主任は話しかける。社長は主任を覚えていなかったのか、口を油で光らせながらいぶかしげな眼でこちらを見ていた。
「監督署のFです、ずいぶん探しましたよ」
「あのクソガキの件のやつか。もういいからあれは。ほっとけばいいだろ」
 クソガキとはUさんのことだろうが、彼は社長とほぼ同年代である。
「ほっておけるわけないでしょう。とりあえずお話ししましょうよ」
 その場を去ろうとする社長の後ろを歩きながら主任が呼びかける。
「知らん。ついてくるな。勝手に会社に入ったら警察に言うぞ」
「わかりました、中に入りはしないんでとりあえず5分待ってくださいよ。今日のところはとりあえず、Uさんの件で文書だけ受け取ってください」
 そう言って、あらかじめ用意していた是正勧告書を渡そうとするも、社長は足を止めずに、
「何の文書だか知らんがこの場で破り捨てるからな」
 と言い放ち、会社の入り口まで着くやいなや「来るな!」と一喝し、扉を閉めてしまった。

 令状を取らなければ強制的に押し入ることはできない。扉の前でインターホンを鳴らし、「社長さん、お話だけさせてください」と呼びかけるも、中では「誰も出なくていい!」という声が聞こえ、事務員すらも応答はしてくれなかった。


 そんなこんなで約3ヶ月が経ち、全く進展は見込めず、元々社長を恨んでいたUさんの堪忍袋の緒は経過を報告するたびにブチブチと音を立てていた。ただでさえ、金を払ってほしいというよりかは金を払わせることで社長に復讐したいという意向が強かったUさんが、刑事告訴に訴え出るのも時間の問題ではあったのである。
「あの男が今ものうのうと金を儲けているのが許せない、一刻も早く罰してください」
「告訴となると、刑事罰を課すか否かの調査になるので今後は賃金を払わせる方向の指導はできなくなりますが……」
「知っています、大丈夫です」
「複数の調書を取ることになるので、Uさんにもかなりの負担を強いることになりますよ?」
「知っています、大丈夫です」
「うんたらかんたらどうたらこうたら」
「あの男に罰を下せるのなら何でもします」
 そんなわけで、夏の暑さも引いてきたころに、申告は刑事事件へと変貌することになったのであった。
 
 とはいったものの、社長は相も変わらず署からの要請に応じようとはしなかった。どころか、Uさんへの怒りを強め、「訴えるなら勝手にやればいい、正しいのはこっちだ」と言い放ち、署からの電話を着信拒否する始末であった。
「要は子供の喧嘩だよね」
 ある飲み会の際、F主任はため息をつきながら漏らしていた。


 さて、刑事事件において明らかにしなければいけない重要な事項として、「期待可能性」というものがある。ざっくりと言えば違法な行為をあえて進んで実行したかどうか、ということであり、この件についてはUさんの賃金の支払期日にそもそも社長が金を払えたのかどうか、についてはっきりとさせなければならなかった。
 幾度も書面を送り、会社を訪問し、ようやくUさんが勤めていた当時の会社の財政状況を教えていただきたいという要請に対して回答文書が送られてきた。やっと来たか、と封筒を開封し書面を確認した主任は、怪訝な表情になり、なにやらパソコンを操作した後、苦笑いし始めた。
「なんて書いてあったんですか?」
「これは使えないねえ」
 手渡された書面を見ると、金はある、だがあのクソガキに払うことは道理に反する、云々と長々と書かれた書面に1枚の『証拠』と書かれた写真が添付されていた。そこには堆く積まれた札束が、非常に粗い画質で写されており、ネットで札束と検索すると、とてもよく似た画像が見つかった。
「こういうとき、普通は金が無かったと主張して情状酌量を求めると思うんですが…」
「逆パターンだね、すさまじい見栄っ張りだこれは」
 結局、そのあとも通帳の写し等を報告するよう求めたが、一切の音沙汰はなかった。


「もうガサだガサ」
 月末会議の際、F主任は半ば投げやりに強制捜査、いわゆるガサ入れの実施を決断した。これ以上任意捜査を進めても埒が明かないことは火を見るより明らかであったのである。そこからは捜査会議を行ったり裁判所から令状を取ったり錠前屋と打ち合わせしたりと、忙しい日々が続いたが、暖簾に腕押しな任意捜査を続けるよりは道筋が通った作業であり、ある意味では気楽だった。


 F主任、自分、そして他6人の計8人(楽しそうということで希望者多数になりくじ引きで決めた)が会社事務所に突入する1班、4人が社長宅に突入する2班、残り3人が署に待機し連絡調整を行う3班の構成で捜索差押を行うこととなった。

 訪れた決行日は、前日とはうって変わって朝から雪が降りしきっていた。手の震えを抑えながら車に荷物を積み込んでいき、最後に署長室の金庫に保管された礼状をカバンに入れしっかりと抱え、署を出発する。1班の車2台が会社近くのコインパーキングに到着するころには、2班はすでに待機場所に到着しており、時間を合わせて同時に突入するため簡単に打ち合わせを行う。事前の内偵調査のとおり、社長はこの時間は自宅でなく会社にいるようだ。部隊がばらばらと車から降り立つ。ドアを閉める音は、水分を多量に含んだ濡れ雪に吸い込まれ、周辺はほんの一瞬でもとの静けさに戻っていた。


かくして場面は冒頭へと戻るのである。
(後編に続く)

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