労働基準監督官日記⑤

 日々あった出来事について備忘録的な気分で書いた以下の記事内容は全てフィクションです。


 労働基準監督官とは、労働基準関係法令に基づいて、原則予告なく事業場(工場や事務所など)に立ち入り、法に定める労働条件や安全衛生の基準を事業主に守ってもらうよう、必要な指導を行い、労働条件の確保・向上と働く人の安全や健康の確保を図る厚生労働省所属の国家公務員のこと。


 結婚式場やホテル併設のチャペルで結婚式を行う際に、式を執り行っている外国人の牧師。あれ、実は大半がアルバイトである。そんでもって、そういう人は正式な牧師でもない。式場に牧師を派遣する会社から派遣された、ただのそれっぽい人である。そして今回T先輩が受け持った賃金不払の申告人ホセ・フランシスコ・ナントカカントカさんは、まさにそのそれっぽい人であった。
「オキュウリョウハラワレマセン」
 英語交じりのたどたどしい片言で話す、20代半ばのアメリカ人短期留学生であるホセ青年は、牧師のアルバイトを数回勤めたが賃金が払われず、留学先の大学学生課に相談したところ監督署を案内されたとのことであった。社長は60過ぎのおばあさまであり、学生課の翻訳者を通じて社長へ話をしても平行線をたどるばかりであったらしい。
「結婚式を挙げる人も減ってるし、会社も金がないんだろうなあ。かわいそうに」
 T先輩は署への呼び出し状を、会社の住所となっている代表者の自宅へ送る準備をしながら、そうこぼしていた。

 
 なお、かわいそうに、というT先輩の所感は、その後一度たりとも聞かなかった。
 後日呼び出し状を受け取ったおばあさまは即刻署に電話をかけ、日本で暮らせるように世話をしてやったのにあの恩知らずめ、食事の面倒まで見てやったのに、恩知らずに渡す金があると思うか、などと1時間近くT先輩にまくしたて、挙句に車もないのにわざわざバス代を払って遠くの監督署まで行きたくない、と電話を切ったのだった。
 T先輩は半笑いしながら、「教科書どおりのワンマン女社長だ」と呟いていた。


 数日後出勤すると、「今日例の社長の家行くけど、空いてる?」とT先輩から誘いがあった。当時まだ1年目の自分はT先輩の手腕を見て勉強したい思い半分、山のような書類整理に辟易しており外出したかった思い半分で「行きます」と即断した。
 社長の自宅兼事務所は、署から雪道を40分ほど車で走った住宅街の一角、こじんまりとしたアパートの1階であった。チャイムを鳴らし、出てきたおばあさまに「監督署です、今お話はできますか」と告げると、「ああわざわざ来たんか、中に入んな」と、特に声を荒げられることもなく、ストーブが炊かれた暖かい室内に通された。
 「さっきまで友達が来てたから、ちょうど片付いててよかったわ」
 そう言う室内は、小洒落た家具や食器の他に、目立つ位置に古びた女性の写真が大きく飾られており、「昔の私だよ、あんたたちもあと数年早く産まれてたら私に惚れてたのにねえ」という言葉に、少なくとも数年どころではないだろうという言葉を飲み込み、曖昧な笑いを返す。

 
 T先輩ともども勧められた応接机に座り、社長は自らの事務机に座る。事務机に目を遣ると、ホセ青年らしき写真が飾られているのが目に入った。それも1、2枚どころの話ではなかった。思わずT先輩と目を見合わせてしまう。
 「ホセはねえ、日本に来た時から私が面倒を見てやってたんだよ」
 僕とT先輩に紅茶を入れながら、社長は話し始める。
 「食事の面倒まで見てやって、高級レストランにも連れていったんだ。それがなんだい、突然辞める、しかも給料も直接取りに行けないから振り込んでくれだなんて、あんまりじゃないかね」
 アンティーク風のティーカップに注がれた紅茶から漂う濃い薔薇の香りは、なぜだか僕たちを不安にさせた。

 「ホセは一人で日本に来て、頼れるのは私だけだったんだ。私はホセの、言ってみれば日本での母なんだよ。考えてみたら、あんな良い子が私にこんな仕打ちをするわけがない。あの大学の学生課とかいうのが、自分に都合のいいように喋って、ホセを私に会わせないようにしてるんだ」
 言葉の意味を呑み込むのに数瞬を要した。なるほどこれは、自分の想像こそが真実であると疑わない類の人種だ。
 「もちろん約束の金は払うよ。でも、直接話をさせてもらわないと。あんたたちもあの学生課とかいうのは信用しないほうがいいよ。賢いんだろ?英語くらいしゃべれるんだろうから、直接ホセに私が言ったことを話してやんなよ」
 これは深く突っ込んでも無駄なやつだ、とT先輩も判断したのか、事務的に事情は分かりましたがお給料は払ってくださいと告げ、その場で書いた是正勧告書を交付する。期日までに支払いをしなければ送検することもありますと定型的な説明を一応しておいたが、社長はその間ホセの写真を眺めうっとりと溜息を吐くばかりであり、碌に話を聞かないまま受領欄にサインをしていた。
「とんだ色ボケババアだ」
 社長宅を辞し車に乗り込むなり、T先輩はこぼした。


 結局、是正期日までに賃金は支払われず、3ヶ月ほどT先輩の申告処理は続いていた。その頃になると僕も自分の事案を受け持つようになり、しかもその最初が告訴にまで焦げ付きそうなものであったため時間がなく、残念ながら(楽しそうだったのに!)同席はできず、あとから飲み会にて「面白かったよ」とT先輩が語る経過を聞くこととなった。


 予想通りと言うべきか、社長はホセに会わせろという主張を翻すことはなく、ホセもホセで身の危険を感じているのか、直接会って話すことを断固として拒否したらしい。結局、学生課の担当者がホセに同行し、署にてT先輩が同席の上で社長と話し合いをすることとなった。
 いや、その予定であったのである。当日、ホセは「コワイ」と言い出し、なんと代わりに来署したのはホセの恋人(!)のアメリカ人女性であった。これに社長は烈火の如く怒った。怒り狂った。それはもう凄まじかった。女性に対し魔女め、お前がホセを騙しているのか、等々誹謗中傷の言葉を並べ立て、学生課職員もこれには翻訳に窮したのだが、女性も社長の態度から言葉は分からずとも自分が非難されていることは悟ったのか、お互いがお互いの喋っていることを全く理解しないままに喧嘩が始まった。壮絶な死闘の末に、結局問題は解決せず、ホセが帰国する日が近づいて行った。


 ホセが海外に行くとなるとやりとりがめんどくさいことになる。T先輩は最後の望みをかけ「ホセさんはもうお国に帰られてしまうんですよ。それまでにはお給料を払ってもらわないと困ります」と告げると、社長は電話の向こうでしばし沈黙し、その後何事かをぼそぼそと呟き、やがて嗚咽し始め、何日に帰るんだ、飛行機の便を教えろ、給料はその時に直接渡すから、との趣旨を半ば懇願に近い形で訴えた。とは言ったもののこちらから教えられるはずもなく、そしてホセがそれを許可するわけもなく、それは言えないことを告げると、社長は完全に押し黙ってしまった。T先輩がいくら話しても沈黙が返ってくるのみであり、参った先輩は「また明日掛けます」と言い、電話を切った。
 それから社長に電話が通じなくなってしまい、これは処理不能案件になるかなあと会議で話していた折、ホセの大学の学生課より電話があった。社長が学生課の窓口にいきなり現れ、「ホセに渡してくれ」と言い封筒を置いて行ったらしい。中には現金と、凄まじく長い文面の手紙が入っていたとのことであった。


 というわけで事件は解決したのだが、T先輩は手紙になにが書かれていたのか気になった。そこでホセへの申告処理終了を告げる電話の折に、「手紙が入っていたと伺いましたけど、なにか請求されて困ったとかありませんでした?」とすっとぼけて聞いたものの、「アー、ワカリマセン」という答えが返ってくるのみであり、一体どんな手紙だったのか、そもそもホセは手紙を読んだのか、ついでに色ボケババアは新たな恋を見つけたのか、分からずじまいのまま処理が終了したのであった。

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