労働基準監督官日記③

 日々あった出来事について備忘録的な気分で書いた以下の記事内容は全てフィクションです。

 労働基準監督官とは、労働基準関係法令に基づいて、原則予告なく事業場(工場や事務所など)に立ち入り、法に定める労働条件や安全衛生の基準を事業主に守ってもらうよう、必要な指導を行い、労働条件の確保・向上と働く人の安全や健康の確保を図る厚生労働省所属の国家公務員のこと。
 立ち入られる事業場にとっては忙しい時に事前連絡なくいきなりやってくるし無碍にもできないとても迷惑な人たち。

 この商売は書類仕事をためてはいけない。机に座っていると暇だと思われ相談対応に駆り出されるからである。そんなわけで今日も非常勤職員さんの監督官相談お願いしまーすの声を受け、打ち込んでいた文字が誤変換状態のままで文章を放り出した。なんとか30分未満で終わってくれ、そうしないとこの後の飲み会の予定が死んでしまう。16時30分を指す時計をちらと見てから、相談ブースに移動するまで神に祈った。

 結論から言うと神は僕を救わなかった。それ以来僕は無神論者となった。まあしょうがない事情があり、相談者は筆談で意志疎通を行っていたため、相応の時間がかからざるを得なかったのである。

 彼は耳が不自由であったがそれは後天的なものであり、読唇術でなんとなくこちらの言っていることは分かるらしい。信じられない能力だが、ただ、聾ゆえのおかしな発音を聞かれたくないらしく自身では喋らず意思疎通はやむを得ない場合を除き筆談で行っているという。
 相談の内容としては単純な賃金未払であったのだが、按摩師という彼の職を鑑みるにおそらく監督署では処理不能な案件であった。というのも、按摩師などマッサージを行う者の業態は施術者という個人事業主へ施設管理者がスペースを貸し出し客を紹介する、請負契約の形式になっていることが殆どである。普段なら契約内容について根掘り葉掘り聞いて処理不能なことを伝え民事的機関にご相談願うところだが、障碍者事案となる可能性を考えるとそうもいかなかった。万が一労働者性があるとすれば本省に報告しなければならないし、あしらうような真似をしてしまうと下手をすれば人権派弁護士様が介入し国家賠償請求などを行うことも考えられるからである。筆談のみでは結局彼の詳細な業務態様を聞き取ることはできず、とりあえず賃金未払案件として受理し調査するだけするしかないという流れになった。

 彼が勤めていたというマッサージ店は飲み屋街の外れ、看板もない目立たないビルの4階にあった。ヤの付く人が関わっていたらいやだなあと思いながら階段を登り、受付に要件を告げるとまさにそのスキンヘッドが店長であった。

「そちらにお勤めのSさんからご相談を承っておりまして、お伺いさせていただきました。少々お話聞かせていただきたいのですが、お時間いただけますでしょうか」
「あーSですか。突然辞めます言うた上に監督署に行っとったんですか。ご苦労様ですわ、奥の部屋へどうぞ。」

 奥の部屋には行きたくねえ、とは言えずに大人しく通され、高そうな革張りのソファーに座った。

「最低賃金未満の給与支払いとのことでSさんからご相談を承っておりまして、実情をお聞かせ願いたいのですが」
「あれはそんなことまで言ったんですか。請負契約ってことで話付けて書面まで渡してたんですがねえ。そこは隠してたんですかやっぱり」

 ちょっと待ってくださいね、といって店長が棚から取り出した書面に目を通すと、果たして印付きの契約書であった。これでは行政指導の段階では厳しい。

「なるほどありがとうございました、Sさんのお話を再度お伺いして、場合によってはまたお邪魔させていただきます」
「それはまあしょうがないですが、そう何回もいらっしゃるのは勘弁してくださいよ。お客さんも怖がるんでねえ」
「すみませんね、障碍者手帳をお持ちの方からのご相談となると慎重にならざるを得ないものでして」
「ん?Sは障碍持ってたんですか」
「え?耳が不自由なはずでは…」
 どうにも話が嚙み合わないな、と思っていると店長はこう続けた。
「いや、普通に聞こえてたし話してましたよ。なんならイヤホン付けて出勤しとりました」

 嘘だろう、潰れてしまった僕の飲み会を返してくれよと絶句していると、店長は「うちのIから連絡を取らせましょうか?」という。どうやらSさんは同僚のIさんにご執心であったらしく、SNSのアカウント経由で電話をすれば連絡が取れるかもしれないそうだ。ほどなくして現れたIさんは、高校生と言っても信じるくらいには随分と若い見た目をしていた。

 かくして、2回ほどのコールの後、Sさんが「もしもし」と応答し、僕はひと昔前に報道の主役となった某作曲家のことを思い出していた。自分を指差し「代わってください」とジェスチャーをし、電話を受け取る。

「もしもし、お電話代わらせていただきましたが」
「誰ですか?いきなりなんなんですか」
「あ、確かに聞こえてますよね。監督署です。Sさんでお間違いないですよね」
「……」
「もしもし?」
「……」
「あの今」プツッ

 たっぷり10秒の沈黙の後、通話はぶつりと切られた。店長は肩をすくめ、タバコを取り出し咥える。

「ご協力ありがとうございました、今日はこれで失礼します」
「まあ、ああいうやつはいますわな。虚言癖っちゅうのは治らないんですわ。人様に迷惑かけたらいけませんわなあ」
 いけませんわなあ、と紫煙を吐きながら平坦に繰り返す店長にやや寒気を感じた。

 

 調査の結果を主任に報告すると、障碍者事案となると普段以上に慎重に調査する必要があることを知っていたんだろう、過去にそれでなにかうまくいったことでもあったんじゃないかな、との返答で、なるほどなと腑に落ちた。
 その後、Sさんに教えられていた住所に送付した連絡依頼は、宛所に尋ね無しとのことで返送されてきた。この短期間で引越しなどできるはずもなく、彼が監督署に対し住所を騙っていたのは間違いないのだが、店長やIさんに聞いても「知らない」「どこかに行ったのだろう」との一辺倒であり、処理は打ち切りとなり終わった。

 その後僕がSさんを見ることは二度と無かった。

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