労働基準監督官日記①

 日々あった出来事について備忘録的な気分で書いた以下の記事内容は全てフィクションです。


 労働基準監督官とは、労働基準関係法令に基づいて、原則予告なく事業場(工場や事務所など)に立ち入り、法に定める労働条件や安全衛生の基準を事業主に守ってもらうよう、必要な指導を行い、労働条件の確保・向上と働く人の安全や健康の確保を図る厚生労働省所属の国家公務員のこと。
 立ち入られる事業場にとっては忙しい時に事前連絡なくいきなりやってくるし無碍にもできないとても迷惑な人たち。



 朝8時30分の電話受付開始と同時に鳴り響いたコールへの対応はほぼ100%余計な仕事である。電話の向こうの人間は鬱憤が溜まっていたり役所の回線が繋がる17時15分までに電話ができない人だったり夜勤明けだったり受付が待てない人だったりつまりは鬱憤が溜まっている人である可能性が高い。案の定受話器を取り上げると、こちらが名乗るか名乗らないかのうちに「違法な事業場があるんですけど」という電話越しでも唾が飛んできそうな訴えと共に1日が始まった。

 80分以上しゃべり続けた彼女の主張を要約すると、
・自分は児童養護施設に勤めている
・昼休み中も子供の相手をしなければならないので休憩がない
・事務仕事も忙しく残業が100時間を超える
・長時間労働及び休憩が無いことは違法ではないのか
・行政指導がなんとか強制力がなんとか難しいことを言うな
・違法を正せない役所は職務怠慢である
・仕事をしない人間は漏れなく死ね

といったものであった。

 電話口の人間の態度如何に関わらず情報があれば監督に赴かなければならない。主任の選定の結果、僕とM先輩が本事案の担当となったのであった。

 数日後、僕とM先輩は電話口の人間がキンキン怒鳴っていた住所から車で15分ほど離れたラーメン屋の、奥まったテーブル席に座っていた。
 「施設だし、たぶん本部とかで資料管理してるだろうからすぐに全部は揃わないだろうし、まあ今日は説明だけして仕切り直しかな」
 「軽く調査の説明して様子見ですかね」 
 本人の承諾がない限り、情報提供者名はもちろんのこと情報提供の有無も明かすことができない。事業主に余計な勘繰りを与えないよう少し慎重になる必要があった。
 「社福ですしそんなにハードな応対はされないですかね」何杯目かの水を飲む。数分前まで食べていた、店主の1週間分のストレスをすべてトウガラシに託して煮詰めたかのような真っ赤なスープで喉が灼けていた。
 「このご時世ってのもあるし無理に押し掛けずに行こう」
 「そうっすね」
 今日は気楽なご挨拶かな。頭の半分では溜まっている他の案件の処理を考えつつ、車に戻りエンジンを入れた。

 そしてそれから数時間後、僕と先輩はやや埃っぽい倉庫の床に正座で座らされていた。

 確かに電話口の人間が姦しく宣っていた住所には情報通り施設が存していて、玄関口には笹が飾っており、児童が思い思いの願い事を短冊に書いていたのである。
 「労働基準監督署です。抜き打ちの労働条件調査で参りました。」
 お決まりの文句。
 「えー…少々お待ちください」
 これもまた受付担当のお決まりの文句。声からは半信半疑の感。茶髪の先を左手で弄びながら彼女は内線をかける。
 やってきた大柄の男性は僕と先輩を見るか見ないかのうちに「何やってんだお前らあああああああ!!!!!!!!」
 これはお決まりとは言えない。お決まりではないけれど事前連絡なしにやってきたことに事業主が激怒するのはよくあるパターンであった。

 大柄の男性こと理事長の言い分はこうだ。このコ〇ナ感染下でどこの馬の骨ともしれない人間が事前の連絡なく来るとは何事だ、子供たちに感染させたらどう責任を取るつもりだ。
 言い分はもっともなので怒鳴られるのは職務上やむなしなのだが、それなら玄関先で追い返してほしかった。
 とりあえず文句を言わねば気が済まなかったのか、僕と先輩は倉庫のようなスペースに通されはしたのだがイスはなく、理事長はどっかと床に胡坐で腰をおろしてしまったのでこちらもとりあえず座るしかない。そしてそこから(追い返してくれればいいのに)怒涛の攻撃が始まったのであった。機嫌を損ねた相手に、うんたら労働省が提唱する新しい生活様式の推奨と抜き打ち監督指導実施のダブルスタンダードをオブラートに包んで懇切丁寧に説明することには相応の困難が伴う。そういうわけで、何とか2人で調査の必要性を説いていたが会話は堂々巡りであった。

 正確に言うのであれば、前半戦までは2人で、それ以降は先輩が、であった。原因は単純であり、思想的な困難さを伴うことなどない肉体的な必然性のゆえである。すなわち、ラーメン屋の店主謹製内臓を焼き焦がすトウガラシのスープが僕の胃壁を苛んでいたのだ。

 迸る激痛。荒れる呼吸。滴る脂汗。もはや会話の内容など頭に入っておらず、天秤の矜持が乗った側が跳ね上がるまでそう時間はかからなかった。
「……!△△△!?〇!」
「×××…。○○、□□□□□!」
「あの…」
「◇◇◇!☆☆☆☆!!」
「あの……」
「▽▽▽……!◎!!」
「あのほんとにちょっと待ってくださいトイレ貸してくださいほんとに」

 僕が中座している間、M先輩と理事長との間にどのようなやりとりがあったのかは定かではない。しかし確かなのは、毒気が抜かれ声のボリュームが下がった理事長と、安堵しつつも気まずそうな先輩が再調査を行う場所や日程を段取っていたという事実だった。

 

 数日後、朝8時30分の電話を取ると、聞き覚えのある声がして思わず溜息を吐きそうになった。
「○○園で働いてる者ですけど。ちゃんと調査したんですか」
「匿名の情報提供ということであれば調査についてはお答えできないんです。前回も申し上げたはずですが…。」
「あれからなんにも変わってないです、本当にちゃんとやってるんですか」
 面倒だな、来週2回目臨検の予定であることを言ってしまおうか…と考えたところで、よく聞いてみると、声と喋り方が初回臨検の時にいた受付の茶髪さんと似ていたことに気づく。
 本人は個人を特定されたくないという意図からかそのことには触れないのだが、どうも理事長が声を荒げていたのを聞いており、僕らが圧されて丸め込まれたものと思ったらしい。上部機関にクレームを入れられるのも面倒なので「近日中に所定の指導を行う予定です」と100回くらい告げ、早く行け明日にでも行けと告げる電話を切った。


 次会った時には理事長は冷静さを保っており、特段資料の改竄などをしている痕跡もなく、いくつかの法違反の是正を勧告し、比較的あっさりと監督は終わった。しかしやはりと言うべきかどうがんばっても100時間の残業は認められなかった。
「ところで、なんで今回うちに来たんですかね」
 理事長はすっかり氷が溶け薄くなったコーヒーを啜りながら尋ねる。
「調査の選定基準は詳しくお伝えすることはできないので、情報の有無とかも言えないんですよ」
「もしかしてAって人がそっちに行ってなんか言ったんじゃないんですか」
 理事長は入口のあたりに一瞬目をやる。茶髪さんはいま受付にはいないようだ。
「なんともお答えすることはできませんね、すみませんが」
 どうもトラブルがあったようだ。サビ残があったかどうか、会社から労働者へ聞き取りを行うよう指示していたので、少なくとも指導を行ったことは茶髪さんに伝わるはずである。これで溜飲が下がればいいのだが。


 2ヶ月後、初めて見る事務の女性が監督署に是正内容の報告に来た。資料に目を通すと、聞き取りの結果いくつかの残業申請漏れがあったと記載されていたが、調査範囲にAの名前はなかった。
「この前名簿にあったAさんって方は退職したんですかね?」
「そうなんです、監督署さんが来られた後少し経ってから辞めてしまって。連絡もつかないので聞き取りも出来てません」
「なるほどそうですか」表情を変えないようにして答える。
 すると、事務員は声をひそめ「Aさんが監督署に行ったんでしょ?」と言い、こちらが返事をする間もなく更に喋り出した。

 これは噂なんですけどという彼女の話をまとめると、Aさんは理事長の愛人であったがある時から急に折り合いが悪くなったところ、事務所内で労働環境の不満を漏らすようになった。終いには同僚数人へこの会社はおかしい、監督署に通報した、すぐに来ると言っていた、などと自信満々に謳っていた。しかし本音は労働云々ではなくたぶん理事長に嫌がらせをして満足したのだろう、とのことであった。
 僕はそれを聞きながら、若干の徒労感に襲われていた。そしてそれ以後、Aさんの声を聞く機会はなかった。


今回の教訓:相手が怒っている時はうんこしろ

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