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昭和36年の秋田国体について

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

由利本荘市(旧本荘市)のごてんまりは、昭和36年の秋田国体で選手団へお土産として配られたことにより、全国的に有名になりました。
秋田県で国体が開催されるのは、この昭和36年が初でした。
当時の資料を図書館で調べてみると、初めてということもあり、非常にドタバタしていたことが分かります。
会場の設備はもちろん、審判をやれる人がいなくて、競技ができるかどうか心配される有様でした。

「秋田のような貧乏県(再建整備団体)に国体がやれるのか」などと嫌味を言われることもあったようです。
しかし当時の秋田県知事・小畑勇二郎の強力なアプローチもあり、なんとか秋田での開催が決定しました。
この小畑知事は、大潟村の干拓事業を国営にしたことでも有名です。

聞き覚えのある名前だなと思ったら、こちらで一度名前を出していましたね。
結果として、国体は大成功でした。
秋田国体は「人情国体」と言われ、他県からの評判も上々でした。
昭和36年と言えば、敗戦(昭和20年)から16年しか経っていない頃です。
秋田で国体をやり切ることが出来たという成功体験は、県民にとって大きな自信になったでしょう。
そして昭和36年と言えば、今から60年ほど前のことです。そんなに昔のことではありません。
70代以上の人なら、実際に生きた体験として覚えていらっしゃいます。

71歳のこけし職人の方が、当時を覚えていらっしゃいました。
「俺10歳くらいで、国体の会場にいたんだよ。あの時ごてんまりがプレゼントされたんだよね」

こうして自分の知識が思いもよらないところで結びつくと、面白いですよね。
勉強していて良かったと思います。
昭和36年の新聞記事には、国体にあやかって秋田のお土産を紹介する特集が組まれています。(昭和36年10月13日『秋田魁新報』)
しかしごてんまりの名前はどこにもありません。
国体自体もバタバタの中で進められており、ごてんまりが選手団へのお土産にすることも急遽決まりました。
そのせいでごてんまりが昭和36年の時点で新聞記事に紹介されることはなかったようです。

『秋田魁新報』にごてんまりが最初に出てくるのは、昭和37年5月23日の記事です。
そのときにはもう「東京の一流デパート、全国趣味の会などから発注や、問い合わせがあった」と書かれています。
ごてんまりの人気はすさまじく、昭和39年の記事では「海外からも注文殺到」などと紹介されています。(昭和39年2月10日『秋田魁新報』)
同じ昭和39年には本荘に内職工芸組合が誕生し(昭和39年3月5日『秋田魁新報』)、昭和49年の記事では「年間八千万円の売り上げ」と書かれています。(昭和49年2月14日『秋田魁新報』)
いかにごてんまりが短期間に産業として発達したかが分かります。
そしてごてんまりにとって昭和36年の国体がいかに重要な出来事であったか、が分かると思います。

◯参考文献
『国体への道』秋田県体育協会 1963年


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